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第一話・焔 第二章・4


 朝からの晴天に変化はない。
 春樹は自宅近くの公園に寄った。新田と座ったベンチには、老夫婦が腰を下ろしていた。
 あてもなく公園の敷地内を歩く。舗道の敷石につまずいた。
 空いているベンチはあるが、春樹は歩き続けた。
 考えがまとまらないときは動いているほうがいい。とまってしまうと、得体の知れない波にのまれそうになる。
 塔崎のハイヤーを見送り、上の空で稲見の小言を聞いたのが、今から一時間前だ。
 その三十分後に春樹の携帯電話が振動した。稲見からの電話だった。

『塔崎様から今、お礼の電話があったよ。感謝の気持ちを表したいからと旅行券十万円分を、社を通してきみに贈るとおっしゃったんだよ。いやあ、やるねえきみは。どうやったの。高岡さんの指導なの?』

 底抜けに明るい声で話す稲見に対して、春樹は静かに返答した。

『真剣に会話しただけです。高岡さんの指導といえば、そうなのかもしれません』

 そうとしか答えようがなかった。
 高岡とフレンチレストランに行かなければ、今日のことはなかったと思う。
 頬をつねられ、頭を小突かれ、考えろと言われ、客と向き合うことが第一歩だと悟った。
 春樹は今日、塔崎の心の動きに全神経を集中させた。身の毛もよだつ男と、逃げずに向き合った。
 塔崎のために自分が大切だと思う店を用意し、自分でプレゼントを買った。
 店もプレゼントもあなたのために用意したのですと、それだけ伝われば充分だった。
 ストーカー行為をするなと釘を刺すことができたのは、好機に乗じた結果にすぎない。
(どうしてこうなったんだろう)
 銀座の喫茶店で塔崎からキーケースを贈られたとき、春樹はカッとなった。
 学生食堂で使う食券十綴り分の価値があるキーケースを、気に入らなければ売っていいと言われたからだ。
 あのときは、腹の底から言葉が駆け出したようになった。
 塔崎は誤解しているようだが、塔崎を思いやる気持ちなどカケラもなかった。
 いつ繰り出してやろうかと考えていた掌底の代わりに、武器として言葉を放ったのだ。
(どうしてああいう言葉が、勝手に出てくるんだろう)
 春樹は立ちどまった。歩き疲れてはいなかったが、ベンチに腰を下ろす。
 さかのぼれば、高岡に最初に抱かれた夜からだ。
 新田としたかった浅いキスをしてくる高岡に、お前は新田とは違うと示したかった。
 深いキスを望んだ春樹は『唇が寂しい』と言った。
 考えることなく、するりと出た言葉だった。『唇が寂しい』と言う前に、何か、頭の奥で声がしたように思う。

 『あとは考えなくていい』

 そうだ。そう言っていた。
 あれは高岡の声ではない。春樹がしゃべる肉声でもなかった。

  自分の中に、何かがいる。

 焔の他に……? 焔があるから……?
 ベンチから立ち上がろうとしたときだった。
「えっ。う、そっ」
 下半身が変化しかけていた。制服のズボンの下が、わずかだが主張を始めている。
「うそ……! ど、どうしよう……!」
 初めて男に抱かれた夜を思い出したからなのか。
 人には見せられない姿が、次々に脳裏に浮かんでは消えていく。
 絡み合う肢体が頭の中を駆け巡る。相手はすべて高岡だ。
 もっと、と叫ぶ春樹が、光る目をした狂犬にしがみつく。
 いつもは目立たない高岡の筋肉も、春樹を突き上げ、自身も果てる間際には明確な陰影を描く。
 あらわになった筋肉に爪を立てる春樹の姿が、頭から離れない。
「何でこんなとこで、こんな」
 春樹は股間の上で両手を組み、指の先が白くなるほど力を入れた。
 背を丸めて息をつめる。頬の内側を強く噛んだ。
 淫らな映像に代わって、フェンスをつかむ新田の指が浮かんだ。
(助けて!)
 今と同じ、高く抜ける空の下。学校のフェンス越しに愛を確かめた。
 唇を触れ合わせた。一緒に鳥の鳴き声を聞いた。
「修一……ッ」
 新田を呼んだ数秒後、微風だった風が一瞬だけ強くなった。
 熱い疼きも、取り消すことは不可能な映像も、風にさらわれていった。


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