Cufflinks

第一話・焔 第二章・3


 自宅マンションに着いたころには暗くなっていた。
 公園の街灯やマンションの屋外灯が、いつもよりあたたかく感じられる。
 結局、塔崎はつけてこなかった。
 頻繁に車両を変えたりしてみたが、あのべとっとした、独特の空気は一度も感知せずに終わった。
 玄関ドアの前でもう一度左右と後方を確認する。非常階段を覗き込む。エレベータの音にも耳をそばだてた。
 何も異変はない。胸を撫で下ろして、鍵を開けた。
 灯りをすべて点ける。部屋は当然のこと、クローゼットや押入れも中を確認した。
 隅から隅まで確認して、ようやくソファに腰を下ろすことができた。
「つ……疲れた」
 春樹はネクタイをゆるめて目を閉じた。窓を閉め切った室内は静かだ。
 いつもこの静けさは寂しさで、すぐにテレビをつけていた。今はまだ、このままがいい。
 ソファに座ったまま廊下を見る。寝室の前に置いた通学用の鞄の中には、キーケースが入っている。
 大量の花は、ダイニングテーブルとリビングのローテーブル、和室の床の間、寝室の学習机の上に飾られていた。
 今日の塔崎にはやはり、寝る気はなかったように思う。
 何が気に入ったのかわからないが、春樹に気持ちを伝えるために接触してきたのだ。
 塔崎の気持ちとはつまり、好意だ。
 二の腕が粟立ち、春樹は両手でさすった。
 高岡につかまれたところが少し痛い。耳も痛い。
 乱暴な男だと思う。思うが、高岡がいなかったら、尾行されていたことに気付かなかった。
 おそらく高岡は仕事であの辺りにいたときに、春樹と塔崎の姿を認めたのだろう。
 銀座の街を、春樹は不相応な品を手に歩いていた。制服姿で。
 そんな春樹が塔崎と共に事情通に見られれば、春樹以上に塔崎が困ることになる。
 高岡はきっと、塔崎の立場を守るために大声を出したのだ。
「そうだよ。絶対そうだ。そうに決まってる」
 威勢よく出した声が、リビングで空回りした。春樹はうな垂れた。頭を掻きむしる。
 朝から抱えている黒いモヤの正体は、これだ。
 心のほとんどの部分が「高岡の大声は塔崎のため」と言っているのに、ほんの一部の反動分子が否定する。

  高岡の大声は、お前を守るため。

 違う、と、首を横に振る。
 本当のところは、両方なのだろう。
 塔崎の金回りの良さは本物だ。社にとっても上客だと想像できる。そして春樹は商品だ。出来は悪くても。
(両方を守ってるなら、それでいいじゃないか。勝手にすればいい)
 個人的に守っているわけではない。客の立場と商品の安全を守れば、自身の仕事にもマイナスにはならない。
 仕事なのだ。功名心のためだ。
 もうこれ以上、考えるな。
 ソファから立ち上がる。部屋着に着替えてキッチンに向かう。惣菜を温めるため、皿に取り分ける。食器を並べようとダイニングテーブルを見た春樹は、菜箸を持つ手をとめた。
 ダイニングテーブルの中央にメモ用紙がある。竹下が書いたものだった。
『お帰りなさい。お食事も、たくさん召し上がってください。』
「竹下さん……」
 コンロの上にあった鍋には、新しく作ってくれた惣菜もあった。アカウオの煮付けで、春樹が残さずに食べることができる魚のひとつだ。下手な箸使いでも「おいしいね」と言うと、竹下はヒマワリのような笑顔で頭を撫でてくれた。
 昨夜の夕飯も今朝の朝食も食べていないと、竹下はキッチンを見て判断したのだ。
 リビングの電話が鳴った。
 一瞬冷や汗が出たが、電話機の液晶画面は父の社からだと告げていた。
「春樹くん、稲見だよ。塔崎様から、下校中のきみに会って悪かったとご連絡があってね。上手に応対してくれたようで助かったよ。ありがとう。塔崎様はとても大切なお客様だ。これからは軽い接待もお願いできないかな。お茶だけとか、お食事だけとか。必ず社を通すとおっしゃっている。体は楽だと思うよ」
「……わかりました」
 肉体は確かに楽だろう。精神は鉛を飲ませられたようになるが。
「心配しなくていいよ、放課後は避けるから。勉強も大切だからね。今、メモとれる?」
「とれます」
「僕の携帯番号を言うから、控えてね。携帯といっても、社のものだから。困ったことがあれば、遠慮なくかけてくれればいいからね」
 尾行が困ると言ったら、稲見は何と言うだろう。
 軽い口調での「そこは上手にやってよ」あたりがしっくりきそうだ。
「春樹くん?」
「ごめんなさい。お腹減って、ぼうっとして」
 からっとした笑いが電話の向こうから聞こえた。声音も始終明るい。
 春樹は受話器から伸びるコードを握りしめた。
「きみはいい子だ。ケアも手厚くするようにというのが、社の意向だ。どんな些細なことでもいいから、気軽に相談してほしい。しっかり食べて、できるだけ早く寝なさい。若くても可愛らしさを保つ努力は必要だからね」
 稲見が受話器を置いた音を確認すると、春樹は乱暴に受話器を置いた。新聞紙を電話台に投げ付ける。
「勉強『も』大切? 勉強『が』大切だろ! こっちは高校生だぞ!」
 腹だって本当は減ってなどいない。食べないと体力が落ちるから食べるだけだ。
 週明けはテストがあるし、明日は新田が来る。心配かけたくない。
 味噌っかすだと思われたくない。誰にも。
 取り分けた惣菜を電子レンジに入れた。アカウオの鍋も火にかける。投げた新聞を拾い、テレビをつけた。あまり見ない番組だが、音がすれば何でもいい。考えることを停止できればいいのだ。
 誰に甘えればいいのか、誰の前で泣けばいいのかわからない。
 新聞をダイニングテーブルの上に置く。オレンジ色の花びらが落ちた。
 もしもこの花が、本当に春樹の買ったものだとしたら。
 言い訳をすることなく竹下に生けてもらい、竹下にハンバーグを焼いてもらい、新田と食卓を囲めたら。
 電子レンジの間の抜けた音がした。春樹はダイニングテーブルの脇で、うつむいて立ちつくした。


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