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第一話・焔 第二章・3
午前中の陽光がリビングを彩る中、春樹は塔崎から贈られた花の水を換えた。
今朝起きた時点では、水を換えるつもりはなかった。
花を視界に入れないようにして新聞を読み、今もゴミ袋を用意して花瓶をつかんだのだ。
オレンジ色でまとめられた花たちは、春樹が茎を持つと「水をかえてくれるの?」と言った。春樹には、そう聞こえた。
まだ充分に元気で、落ちていない花びらはしっとりしていた。香りもあった。
新田が来るのに贈り主を思い出すのが嫌だから捨てる。
可哀相だと処分できずに持ってきたのは春樹だ。
人の手で切られてしまった花を、春樹の都合で二度殺すようなことはできなかった。
リビングの時計が十一時を示している。そろそろ新田が来るころだ。
春樹は洗面所の鏡で自分の顔を見た。頬が少し染まっている。
胸の黒いモヤは消えていないが、新田に自宅で会えるのは嬉しい。
浮き立つ気持ちを抑えながら、室内をもう一度点検した。
滅多に敷かないテーブルクロスが、花と共にダイニングテーブルを飾っている。部屋の空気も入れ替えた。
ハンバーグは用意できなかったが、食べるものは豊富だ。これなら新田にくつろいでもらえるだろう。
二十万円も、キーケースも、仕事道具も、すべて鍵付きの引き出しに入っている。ベッドも乱れていない。
「修一……早く来て……」
学習机の花瓶は、テレビのそばに移した。新田と触れ合えるのなら、ベッドの上で抱きしめてもらいたい。そのときに塔崎の花を見るのは、さすがにつらい。
ズボンの尻ポケットが震えた。
初期設定にした待ち受け画面を流れていくのは、「T」だった。
「お早うございます。昨日はありがとうございました」
「棒読み選手権があれば優勝候補になれるな、仔犬ちゃん」
遠回しで高飛車な狂犬の言い草を聞き、春樹の目は斜め上に引っ張られた。
「何をしていた。昨日は無事に帰宅できたか」
「今日は修一と家で勉強するから、迎える準備です。もうすぐ来るんです。昨日は無事でした。歌も歌いませんでした」
もうすぐ、を強調したからなのか、高岡は隠すことなく声をたてて笑った。
「無事ならそれでいい。新田と楽しめ」
「た……! 楽しむって、何ですか? 勉強するだけですっ!」
笑い声と電話を切る音が同時にした。春樹は不必要な着信履歴を消して、携帯電話を学習机の上に置いた。
『無事ならそれでいい』
高岡の声が頭の中に再現された。威圧的でない響きだった。
(仕事での言葉だ。考えるな)
もうすぐ新田が来る。汚い私生活を悟られるな。不安にさせるな。
玄関の呼び鈴が鳴った。春樹はドアスコープもインターフォンも確認せずに、ドアを開けた。
「!! いや…………!」
目の前に差し出されたものを見て、悲鳴に似た声をあげてしまった。
白と青紫の二色の花が、小さな花束になっている。手にしているのは新田だった。
「春樹……?」
「ご、ごめんね、大きな声出して……びっくりした。入って……」
春樹は花束を受け取り、言い訳を探した。塔崎がここまで来たと思った、などとは死んでも言えない。
新田が廊下に上がるまでドアを押さえる。二重にロックをかける前に、マンションの廊下に目を走らせた。
「びっくりしたのはこっちだ。幽霊でも見たような声だったぞ」
幽霊。それでいこう。
「怖いDVD借りちゃって。あんまり怖くなさそうだから大丈夫かなって思ったんだけど、思ったより怖かった。幽霊が花を持ってくるシーンがあったんだ」
新田は下らないものは観ない。大丈夫だ。バレやしない。
「夜ひとりなのに、そんなの借りたのか。わ……すごい花だな」
リビングに入った新田は、塔崎の花を見て声をあげた。
ダイニングテーブルとローテーブル、テレビボードを兼ねたコーナーボードの上の花瓶を、順に見ていく。
「きれいだな。花持ってきて、余計だったかな」
「余計だなんて! その花は衝動買いしちゃったんだ。きれいだったから。修一が持ってきてくれた花、きれいな色だね。形も可愛いし。何ていうの?」
涼しげな色合いの花は、ふっくらした姿だった。花びらの端がくるりとカールしている。
シンクで花の包みを解こうとした春樹の頭を、新田の指が軽く弾いた。
「フウリンソウ。カンパニュラの一種だぞ、園芸クラブの丹羽くん」
弾かれた感触が心地良い。笑って新田を見ると、視線が重なった。
背中に手を回されて、向かい合わせになる。先に目を閉じたのは新田だった。
スムーズな動作でふたりの唇が触れた。すぐに離れる。離れるときの恥じらう音に、頬が熱くなった。
春樹の肩がそっとつかまれる。目を開けると、実直な新田の瞳があった。
「うちの庭で咲いた。お前に見せたくて、持ってきた。花瓶あるか?」
「たぶんもうないと思う……どうしよう」
「その、テーブルのとテレビの横の、一緒にしてもいいか? 葉を落として少し切れば入ると思うから」
春樹はキッチン鋏を出し、コーナーボードの上にあった花瓶を持ってきた。ダイニングテーブルにあった花瓶は、すでにシンクの中だ。新田は手際よく茎を切り、生け直していった。
花を生ける新田の横顔は、学校にいるときよりも穏やかだった。
先月より少し伸びた前髪が作る影が、大人びた印象を与えている。
早く触れたい。利発な瞳を見つめて、前髪や背中に────────
新田が春樹を見た。眉尻を下げて微笑む。
「そんなに見られると、緊張する」
花ではなくて新田を見ていた春樹が、頬を手で覆った。ダイニングの椅子に座る。
客人である新田に花を生けさせ、自分は腰かけるなんて。
恥ずかしさで顔が下を向きそうになるが、新田からは目が離せない。
「庭で生きてた花を……ありがとう。花言葉は何? フウリンソウの」
「感謝、誠実、思いを告げる、あたりが知られてるかな」
思いを告げる。
春樹の鼓動は、新田から花言葉を告げられる度に速くなる。
だめだ。このままここにいたら、自分からキスをしてしまう。
勉強道具を取りにいくため、寝室に向かった。鞄と机から教科書類を出していると、戸口に人の立つ気配がした。
顔を赤らめた新田が、フウリンソウの花瓶を持って立っていた。
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