Cufflinks
第一話・焔 第二章・3
胸がむかむかした。高岡と並んで歩き、自分の仕事を「こんな遊び」としか言えない。後ろには塔崎だ。
線路沿いになど歩かず、真っ直ぐ帰宅すればよかった。
「伊勢原様の件で、ふたつ訊きたいことがある」
「え、はいっ」
「お前が浴室にいる間に、服を見させてもらった。ポケットに小銭が入っていたが、何故セロテープでとめた?」
「あの……音がしないようにです。壬さんのポケット、小銭を入れても外からすぐにはわからないんですけど、テープでとめたほうが、じゃらじゃらしないかなって思って」
「自分で考えたのか」
「は、はい」
仕事のときには携帯電話と財布を持ち歩かないようにしている。靴に一万円札を忍ばせるが、緊急時に万札だけでは使い難い。壬の服には隠しポケットがあるため、普通に小銭を入れてみた。見た目はすっきりしていて小銭が入っているように見えないのだが、脱ぎ着をすると硬貨同士が当たる音がした。
そのため、数枚の小銭を並べてセロテープで挟み、ポケットに入れているのだ。
「お座りの次に、お手ができたか」
高岡は言い、後ろを振り返った。春樹が高岡の腕をつかむ。
「たっ、高岡さんっ」
「大丈夫だ。もういない」
春樹もそっと後方を見た。街路樹を一本ずつ目で追う。
行き交う人々もできるだけ見てみるが、塔崎の姿はどこにもなかった。安堵の息をつく。
「どうして急にいなくなったんだろう……」
「さあな。ふたつ目の質問だが、ホテルの電話から俺を呼んだのは何故だ」
浴衣の帯で縛られた自分が、記憶の中から浮き上がってくる。伊勢原に犯された春樹は、安宿に置き去りにされた。
春樹はベッドから自分の体を落とし、不自由な姿勢で電話をしたのだ。隣にいる狂犬に。
「自宅以外で覚えてたの、高岡さんの携帯電話だけだったからです」
「そうか。それは嬉しいな」
高岡が笑った。唇の端を上げ、春樹を見もせず、歩くのもやめない。
春樹は足をとめ、鞄を高岡の背中に投げ付けた。高岡が振り返る。
怒ったに決まっているが、春樹は目を閉じてわめくことしかできなかった。
「忌々しい番号だからです!」
両手を握り締める。通行人の視線が突き刺さっていくのが、見えなくてもわかった。
「た、高岡さんは、僕を混乱させるから、嫌いです! 高岡さんからの着歴見られたくなくて、消してるうちに覚えただけです。あのっ、あの、放っといてほしいんです。仕事以外のことで構われるの、困るんです! 修一も誤解するし」
「仕事以外で構った覚えはないが」
高岡の声に怒気がない。笑いもない。春樹は手をかざして目を開けた。
春樹の鞄を持った高岡が、無表情な顔で立っている。鞄の表面を払い、春樹に手渡した。
「勉強道具は大切にしろ。寄り道をせずに帰れ」
それだけ言うと、高岡は大きなビルの角を曲がった。今歩いていた道より、少し細い道を進んでいく。
春樹は走らずについていった。地下鉄の入り口はたくさんあるし、帰れと言われたのにこんなことをすれば、今度こそ殴られるのは必至だ。
(何やってるんだ。やめろ。あんな奴についていくな)
腹の深部もまだ痛い。右の耳も痛い。テスト勉強もしなくてはいけない。
ふらふらと歩く春樹の鼻に、嗅ぎ飽きた香りが再び届いた。
斜に立つ高岡が、光る目で春樹を見据えた。
「帰れと言ったはずだ」
「……送ってってください」
「断る」
離れる高岡の手をつかんだ。案の定、振り払われた。
「商品を無事に帰すのも、仕事じゃないんですか」
鞄で顔を覆うことなく高岡を見上げた。高岡の表情は、先ほどと変化がない。
殴られてもいいように奥歯を噛み締める。高岡の両手が春樹の胸もとに伸びた。反射的に目をつぶる。
「動くな」
薄目を開けた。高岡が春樹のネクタイを直している。
広い通りでしゃがみ込もうとしたときに引っ張られたのだが、そのままになっていた。ネクタイが締められ、ジャケットも真っ直ぐに整えられた。七五三で晴れ着を直してもらう子どもみたいだ。春樹は赤くなってうつむいた。
「この界隈は細い道は一方通行、大通りは渋滞で動きづらい。タクシーが楽に走れるところまで連れていってやってもいいが、俺も遅刻をするわけにはいかない。今日のところはつけられないだろうから、動ぜずに帰れ。万が一つけられたら、大きな声で歌でも歌えばいい」
「う、歌……ですか?」
「やってみればわかる。声がかれるほどの大声で歌うのがコツだ」
「声がかれるほどの……」
銀座の広い歩道で、高岡は春樹を怒鳴り付けた。驚くべき大声で。
舞台俳優並みの声と派手なパフォーマンスで衆目を集めた。
その結果、塔崎は春樹を追い難くなった。
「待って! 待ってっ!!」
振り返らずに足早に歩く高岡を、走って追いかける。
体に触れればまた振り払われるのはわかっていたから、走ったまま高岡に並んだ。
「ちこ、遅刻はさせません。あんな、お芝居みたいな、ことさせて、ごめんなさい。ありがとう、ございます……あっ!」
横を向いて走ったせいだろう、大きくつまずいた。
高岡に腕をつかまれて転倒は避けられたが、引き上げられたときの遠心力で高岡に抱きついてしまった。
両方の二の腕をつかまれて、体を押しやられる。
「歌ってもつけてきたら、警察に駆け込め」
「けいさ……そんな、いいんですか」
「上手く嘘をつけば大丈夫だ」
高岡が歩き始めようとしたので、春樹は高岡の胴にしがみついた。
行く手を阻まれた高岡から、苛立ちの溜め息が漏れる。
「いい加減にしろ。遅刻をさせないと言ったのはどこの誰だ」
「警察は嫌です。会社の人……稲見さん、稲見さんに頼んじゃだめなんですか?」
髪を強くつかまれた。真横に引かれる。脇を通る人が、ぎょっとした顔をする。
「いた……!」
「社員はお前のお守りではない。仕事が入っている日ならともかく、好きに呼び付けられると思うな。わかったか」
「わ、わかりました」
髪を放された春樹は駆け出した。次こそ殴られる。
「待て!」
足がとまる。鞄を抱えて背を丸めた。
「誰も無条件に信用するな。社員に関しても同じだ。知らない社員は特に警戒しろ」
振り返ると、高岡は横道に入っていくところだった。煙草の煙だけがこの通りに残る。
春樹は髪と服を整え、地下鉄の入り口に向かって大股で歩いた。
「警察はよくて、社員はだめ? 何だよそれ」
狂犬の思考に毒されたら、こちらまでおかしくなる。おかしいのは仕事だけで充分だ。
地下につながる階段の手前で、背後を念入りに確認した。
塔崎のべとべとした気配も、高岡の凶悪なオーラも感じない。
春樹は時々振り返りながら、地下鉄を目指した。
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