Cufflinks

第一話・焔 第二章・3


 春樹はそのまま、手を握られることもなく解放された。
 タクシーに同乗することを覚悟していたが、好きなように帰っていいと言われた。
 外は街灯が灯っていた。大通り沿いに地下鉄の出入り口があったことを思い出し、鞄を抱えて歩き出す。
 信号につかまった。塔崎から贈られたキーケースを鞄から取り出す。
 特殊なキャンバス地でできたキーケースは、新品なのに手の平にしっくり納まった。
 控えめな光沢のある黒色と隅に織り込まれたブランド名のロゴが、春樹には不相応な品だと言っている。
 信号が変わったようだ。人波が動く。春樹はキーケースを鞄にしまい、波に逆らわずに進んだ。
 信号を渡り切り、さらに直進したときだった。
 嗅ぎ飽きた香りと、身長の高い人物の影。
 歩道の真ん中で腕組みをして立っているのは、高岡だった。
 全身から友好的でないオーラが放出されている。
 高岡に二の腕をつかまれた。非常に強い力で引かれる。反動で頭部が後ろへ振られるほどの力だった。
「た、高岡さ……」
「自習もせずに寄り道をするとは何事だ!!」
 鼓膜が破れるかと思った。生身の人間からこんな大声を聞いたのは、生まれて初めてだった。
 高岡の声は通る方だ。少し低い、よく響く男らしい声をしている。
 だがこの声はまるで、舞台俳優のような大きさと迫力だった。
 通りを行く人が高岡と春樹を避けていく。
 ラフなスーツを着た長身で動物みたいな目をした男が、小柄で制服を着た少年の二の腕をつかみ、大声を出している。平和な映像ではない。
「お前はいつからこんな街をうろつけるほど偉くなった!! 来い!!」
 空気がビリビリする。春樹は二の腕をつかまれたまま、歩道を文字どおり引きずられていった。
 異様に速いスピードで歩く上に高い位置で腕をとられて、バランスが保てない。足が何度も地面から浮いた。
「い、痛いです! ちゃんと歩くから、放してくださいっ!」
「痛いだと?」
 高岡が立ちどまる。平手打ちをくらう予感がして、鞄で顔を覆った。
 こんなところでは殴らないだろうという常識は、この男には通用しない。
 数秒待った後、予感は思いもしない形で当たった。右の耳に激痛が走る。
 狂犬の左手が春樹の右耳をつねり上げた。半端な痛みではない。目尻に涙が滲んだ。
「い……ったあい!!」
「痛いのは腕じゃなかったのか!! 望みどおり腕は放したぞ!!」
「やめて、やめてください! 耳だって痛いですっ!!」
 ここは銀座で、端ではあるが広い通りだ。大声で怒鳴り合う奇妙なふたりに視線が集まる。
 ふたりを見る目には、笑っているものもあった。
 両手で鞄を抱えて足をもつれさせ、耳をつかまれて歩く春樹の姿が滑稽なのだろう。
「この辺りでいいだろう」
 唐突に自由になった。耳を押さえてしゃがみ込もうとしたら、高岡にネクタイを引かれた。
「立て。鏡はあるか」
「ありませんっ」
「これを使え」
 高岡のジャケットから出てきたのは、薄いカードタイプの鏡だった。
 鏡を受け取った春樹は、迷わず右耳を映した。高岡の拳骨が春樹の頭を軽く殴る。
「いたっ!」
「耳を見るふりをして、後ろを見ろ。街路樹側だ」
 鏡に視線を戻したとき、嫌悪の声が出そうになった。
 四角い鏡の中に────塔崎がいる。
 街路樹に隠れてこちらを見ている。春樹をつけてきたとしか思えない。
 高岡が再び歩き出した。来いとは言われなかったが、塔崎に捕まることを想像すると寒気がする。
 春樹は仕方なく高岡を追った。
「客に跡をつけられるな。プライベートで親交を結んだとしてもだ」
「プライベートって……そんなんじゃないです。そんなこと、したくありません」
 高岡に鏡を取り上げられた。狂犬の顔に、たっぷりの嘲笑が浮かんだ。
「相変わらず、敬服の外はない学習能力だ。まだ客が選べると思っているようだな」
 春樹は答えず、耳をさすった。じんじんと熱くて痛い。
「何をいただいた」
「キーケース…………で、す」
「あっさり吐いたな。途中で失敗に気付いたのは、ささやかな成長の証か」
 高岡がいつもの速度で歩き始めた。この男には商品に歩調を合わせるという考えがない。
 コンパスからして違う高岡に並ぶためには、小走りのような、スキップのような歩き方になってしまう。
「仔犬ちゃん。その歩き方をやめてくれないか」
 高岡の声には侮蔑ではない笑いが含まれているようだったが、今の春樹に高岡の表情を見る余裕はない。
 塔崎から逃れなくては。春樹は今までの人生で一番だと思えるほど、必死でスキップをした。
「た、高岡さんが、ゆっくり歩いてくれたら、やめます」
 期待できないことも言ってみるものだ。高岡が歩くスピードを落とした。
 高岡に並んだ春樹は汗を拭い、呼吸を整えた。
「ときに仔犬ちゃん。客の名を隠すのは何のためだ」
「立場のあるお客様が、こんな遊びをしていると知られると……色々困るからです」
「わかっているなら実行しろ。いただいた贈り物を見ながら歩くな」
「……はい」


次のページへ