Cufflinks

第一話・焔 第二章・3


 駅ビルに着いた春樹は、直結するホームには向かわなかった。
 この駅ビルにはふたつの出入り口がある。ひとつは大通りに面するもので、もうひとつはその裏側だった。
 商店街も近い大通り側とは対照的に、裏側の出入り口は少々寂しい。細い道と線路があるだけだ。
 登下校時に使うのは、大通りに面する方だ。今も春樹は大通り側から入った。
 駅ビルの一階を通り抜ける。裏側の出入り口から外に出て、線路沿いに歩いてみることにした。
 自宅に帰りたくない。
 稲見は今日から三日間オフだと言ったが、高岡は卑劣な男だ。腹の奥が痛いと訴えても、春樹を組み敷くだろう。
(違う、だろ)
 歩くスピードが遅くなった。脇を通る線路を列車が通過する。風にあおられたネクタイが、頬を打った。
 狂犬がいるかもしれない自宅に帰るのは嫌だ。しかしそれ以上に、学校に残るのが嫌だった。
 理由はわからないが、いたたまれない。瀬田にしてしまったことを恥じるからではないようなのだ。
「どうしたんだ、僕……」
 春樹の右隣に車がとまる気配がした。タクシーだ。
 下ろした窓から顔を出した人物を見て、春樹の全身が粟立った。
 塔崎だった。頬を赤くしている。
「ご、ごめんね。一緒に来て。少しの間だけだから」
 春樹は言われるまま乗り込んだ。硬い笑顔で塔崎を見る。
 塔崎は忙しく汗を拭きながら、体に触れないようにして春樹のシートベルトを締めた。
 すでに行き先が告げてあるのか、車はすぐに発進した。オフだというのは嘘だったのか。
 学校の最寄り駅で、タクシーに乗れと言うなんて。運転手に顔を見られた。制服も見られた。
 決めた。人のいるところで可愛いを連呼されたり体を撫でられたりしたら、最低限の抵抗とやらをお見舞いしてやる。
 メインバンクだか何だか知らないが、遊び道具にも都合というものがあるのだ。抱きたければ社を通せ。
 練習していない技に備えて、利き手に力を入れた。
「アポイントなしで、本当にごめんね。喫茶店でお茶を飲みましょう」
「……え?」
「渡したいものがあるだけだから」
「あ……はい」
 塔崎は前を見て、春樹に触れようとしない。可愛いとも言わなかった。
 春樹の気迫は、わずか数秒で消滅した。


 タクシーは銀座の少し手前でとまった。十分近く歩く間、塔崎は手も握ろうとしなかった。
 喫茶店はビルの二階にあった。あまり広くない通りに面している。
 天井が高く、広くはないが開放感がある。大小様々な装飾ランプがあり、夜はきっとやわらかい灯りが彩るのだろう。食器のディスプレイを兼ねた食器棚も、テーブルも椅子も、窓枠まで、すべてダークブラウンで統一されていた。古い洋館の応接間を思わせる。
 案内係は濃紺のスーツ、メニューを持つ給仕人は黒いスーツ姿だ。高級ホテルのラウンジに似た接客だった。
「ご注文はお決まりでしょうか」
「えっ、あ、あの、アイス……ミルクティー……を」
「僕はブレンドをお願いします」
「かしこまりました」
 店内にはコーヒーの香りが立ち込めており、メニューもコーヒーの種類が多い。塔崎が頼んだものもホットコーヒーだ。
 ここはコーヒーに自信がある店だと気付いたのは、自分の好きな飲み物を告げた後だった。
「……申し訳ありません。コーヒーを、その……お願いしなくて」
「いいんだよ。何でも好きなものを頼んでくれれば」
 今日の塔崎は、何かが違う。
 夜のホテルで非合法な遊びをするときとは違って当然なのかもしれないが、妙に言葉を選んでいる。
 春樹を見る目は興奮を隠せないようだが、真剣さがあるように感じられた。
 渡すものがあると言っていたのに、塔崎は隣の席に置いたビジネスバッグを開けようとしない。
 コーヒーが置かれても少ししか口をつけずに、じっと春樹を見つめる。
 喫茶店に誘ったのは単なる口実で、本当は抱くつもりなのではないか。
 それなら今度こそ突きをくらわせて、いや、それがかなわなくても、隙をみて社に一報はしたい。
 弱気なシミュレーションを繰り広げる春樹の前に、小さな箱が置かれた。ラッピングがしてある。
 塔崎が持つビジネスバッグと同じブランドの包装だった。


次のページへ