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第一話・焔 第二章・3
『私学では私たちも助けてあげられない』
戸口を見る。まだ森本は来ていない。春樹は小声で瀬田に訊いた。
「奨学金もらえたら、学校、通えるの……? アルバイトもすれば、大丈夫なの?」
瀬田は小さく笑ってかぶりを振った。
「もらえても一か月数万だから。ここの、ひと月分の半分にもならない。奨学金とバイトの金を合わせれば、ギリギリ何とかなる。授業料だけなら。生活費入れると、正直やばい」
「生活費……」
「おれん家三人兄弟で、おれ長男なんだ。自宅も手放したし」
何も言えなくなった。
こうあるべきだという見本が、目の前に座っている。
真っ当に足掻いて、できるところまで前向きに生きる。
SMクラブ経営者に体を許し、惨めな姿でホテルに取り残される────そんな道を選んだのだ、春樹は。
自分が通う学校の学費も知らず、奨学金を調べようともしなかった。弁当どころか味噌汁も作れない。
男とのセックスの代償として二十万円の小遣いを得て、深く考えもせずに食券を分けようとした。
こんがらがった涙はこみ上げてこなかったが、春樹は両手でひたいを覆った。
「あ……ごめん、何か暗くなったな。奨学金、早くもらえるかもしれないし、最悪、学校はここだけじゃない。頭悪いから、エラそうなこと言えないけど」
森本が購買部の袋を手に入ってきた。春樹を見て足早に近づく。
「丹羽、ほんとに大丈夫か? 顔色良くないぞ」
「大丈夫。森本、ありがとう。食べよう」
パック入りのアイスミルクティーと、ゆで卵の入ったロールパンを引き寄せる。
瀬田を見ないようにして食べるつもりだったが、瀬田から声をかけられた。
「おれ、今日学食行ってみてよかったよ、丹羽」
「え……」
「森本と先生以外にこの話するの初めてだったけど、言ってみたら何ていうか……すっきりした。胸ん中が。イライラして弟にあたることもあったから、自己嫌悪だったんだ、ここんとこ。聞いてくれて、ありがとな」
春樹は喉に貼り付くパンを、ミルクティーで押し流した。
やはり調子が悪くなった、と言って席を立つ方法もある。
しかし森本が同席している以上、下手なことはできなかった。新田に知られるかもしれない。
それに逃げ回ってばかりいては、級友と親友との境界線を越えることはできない。
少しむくれてカレーパンをかじる森本に、春樹も「こいつはおれの友達だ」と言ってほしかった。
春樹は居住まいを正し、瀬田に向かって口を開いた。
「僕、ひとり暮らしなんだ。母は死んで、父とは離れて暮らしてる。夜になると、理由もなく不安になることがある。先月は母の命日があって、ちょっと落ち込んでた。体調も崩したし、気持ちも不安定だった。さっきみたいに突然泣いたりするんだ。春は特に。甘えてるって思われるのが嫌で、あまり言ってなかった」
「命日かあ。おれが知ってるのは、婆ちゃんのくらいだな」
森本は言いながら、購買部の袋を瀬田の前に押しやった。膨らんでいる袋の中を見て、瀬田が顔を上げる。
「森本、こんなにもらえない」
「誰がお前にやるって言ったよ。弟たちの分だ、ばーか」
瀬田はすでに一番大きな惣菜パンを食べている。森本が無言で強制的に瀬田の前に置いたものだ。
ハムカツが入った大きなコッペパンも牛乳も、瀬田の好物なのだろう。森本は迷わずにそれらを置いた。
「……ありがとう」
「弟のだって言ってんだろ。あー、話変えるけど、丹羽の顔って、やばくね?」
瀬田が真正面から春樹を見た。目を大きく開き、眉をしかめ、首を傾げて森本を見る。
「やばいって? ニキビもないし、ケガもしてないぞ。鼻毛も出てない」
春樹と森本が同時に咳き込んだ。森本は瀬田の肩を叩き、腹を抱えて笑っている。
注視されて照れたのと、真っ直ぐな答えで春樹は首まで熱くなった。
この顔を、同級生から「可愛い」「女みたい」と言われることが少なくなかった。
卵型の女顔に、適度な厚みがある濃い栗色の髪。黒い瞳の丸い目は小さくなく、口角が上がっている唇は無意味にピンク色で必要以上に柔らかい。
自分の顔について、そういう言葉が繰り出されることに慣れてしまっていた。
どうせまた女みたいだと言われるのだ、と、あきらめていたところがあった。
可愛いと言われて悪い気がしないのは、新田といるときだけだ。それでも手放しで喜ぶほどの嬉しさではない。
高岡の可愛いは下に余計なものが付くし、客の可愛いは商品に対する評価の一部だ。
同級生からは言われなくなったが、上級生が「あれ、男か?」と、ひそひそ言うことはある。
それらを吹き飛ばしてくれる、正常な響きに打たれた。
春樹は瀬田に対して微笑んだ。瀬田は頭を掻いている。四角い顔は、もう赤くなかった。
「まーこれで仲直りってことで。許せよな。学食の廊下で怒鳴ったこと」
春樹にも瀬田にも、どちらにも伝える感じで森本は言った。森本が立ち上がる。
春樹の鼻先で食券がひらひらした。瀬田に渡そうとした食券を取り上げた森本が、そのまま持っていたものだ。
「返しとく」森本が春樹に言う。
春樹は一度食券を受け取り、瀬田に向けて両手で差し出した。
「瀬田くん、受け取って。僕も自分の家のこと話して、少し楽になった。世の中にひとりきりになっちゃうような気がして、怖かったから……。顔のことも、女みたいって言われなくて嬉しかった。これは嬉しいって思う、僕の気持ち」
「それなら、もらっとく。ありがとう。おれが肘ぶつけたとこ、痛くないか? 腹は?」
「大丈夫だよ。痛かったら、食べれないよ」
第二食堂の席を離れる春樹と瀬田の間に、森本が割り込んだ。にっと笑ってふたりを交互に見る。
「なに回りくどいこと言ってんだよ。友達だから、ただのおごりじゃん」
春樹の鼻の奥がつんとした。たちの悪い涙じゃない。こらえることができそうだ。
森本が瀬田を小突いた。瀬田がやり返す。やり返された森本は、春樹を小突いてきた。
三人は小突き合いながら、教室がある新校舎に向かった。
小雨はやみ、雲の切れ間からあたたかい陽の光が射していた。
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