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第一話・焔 第二章・3
旧校舎と新校舎を結ぶ渡り廊下の下に、春樹と森本と瀬田は並んで座った。
朝から小雨がパラつく天気だったが、今も少し降っている。
「保健室、行ったほうがいいんじゃないか?」
ここに来るまでに何度か聞いた言葉が、再度森本の口から出た。
「おれもそう思う。こんなに泣くほど痛いなんて、病気かケガだ」
瀬田も同調した。背を丸めて春樹を覗き込む。
春樹はようやく涙がとまったため、ハンカチで覆っていた顔を上げた。
「まあ、あれだ。泣いたのは、おれが怒鳴ったせいかもしれねーけど」
森本がぶっきらぼうにつぶやいた。
「……違うよ」
春樹は自分の頬を手の甲で押さえた。恥ずかしさで熱くなっている。
「お腹痛いのは、昨夜食べなかったのに朝たくさん食べたからだと思う。泣いたのは……恥ずかしくなったから」
朝食は食べていない。昨夜は夕食も口にしていない。食べる気になれなかった。
「やっぱ、おれのせいじゃん」
「違うってば。あーあ、泣いたらお腹減っちゃった。購買部、今なら空いてるよね」
あえて勢いよく立ち上がった。下腹部の奥にある不快な痛みに、黙っていろと念じる。
こんがらがったときの涙を説明するのは、ひと言では難しい。
食券はひと綴り単位でしか売られない。ひと綴り三千円だ。
それが買えないらしい瀬田に施しをしようとした自分を、恥じたのは事実だ。
だが、この涙の主成分は混乱だ。気軽に口を開いたりしたら、抑え付けている魂が飛び出してしまう。
高岡にも客にも抱かれたくない、正しく生きたい、新田のものでありたいと願う心が、四方八方へ散ってしまう。
「きょうはおれのおごりだ。おれが買ってくる」
森本が立ち、尻ポケットから財布を出した。立ち上がりかけた瀬田を、森本が手で制する。
「おれが買うっていったら、おれが買う。丹羽、嫌いなもんあるか? 飲み物はミルクティーでいいんだよな」
「嫌いなものはケーキだけど……僕も行くよ」
「いいっての! お前は瀬田と一緒に、先に第二食堂行ってろ」
小雨の中を、森本が機敏な動きで駆けていった。
旧校舎の下駄箱があるホールに消えるまで、十秒とかからなかった。
瀬田が立ち上がり、春樹と顔を見合わせる。
「行こうか、第二食堂」
「うん……あの、瀬田くん、ごめんなさい。あんなことして」
「謝らないでくれ。えっと……」
「丹羽だよ。丹羽春樹」
第二食堂は旧校舎の二階、購買部の真上に位置していた。
数年前まで使用していた美術室を改装したものだが、入るのは初めてだ。油絵の具の臭いがする。
春樹は瀬田の後に続き、きょろきょろしながら壁際の席に腰を下ろした。
「薄暗いね。こんな天気だからかな」
「蛍光灯、何本か抜いてるんだ」
天井を見ると瀬田の言うとおりだった。何本、ではない。半数以上が抜き取られている。
聞いていたとおり、閑散としている。学生食堂と違い、複数人で利用する生徒はあまりいない。
意外だったのは、手持ちの弁当を食べている者がいることだ。
「お弁当、いいの……? だめだと思ってた」
校内の購買部で買ったものであっても、学生食堂への持ち込みは禁止されている。食中毒が心配なのだろうと、皆が言っていた。菓子パンや惣菜パンを警戒するのなら、手作りの弁当はなおのこと許されないのだろうと、春樹は思い込んでいた。
「学食で食わなきゃ何でもいいんだ。今朝、弁当作ろうとしたら米が炊けてなくて……スイッチ入れ忘れたんだ。起きるの遅かったから間に合わなかった。テスト勉強とバイトで、ぼうっとして」
「アルバイトしてるの?」
瀬田がうなずく。大柄な体に似合う四角い顔が、また赤くなった。
「おれん家、工務店だったんだけど、儲からなくなって……親父の具合もよくなくて。事務所、たたんだんだ、先先週。何とかするから高校はこのまま通えって親父もお袋も言ったんだけど、やっぱ苦しくてさ。バイトは近所のトンカツ屋の、皿洗い。平日の夜三日間と、土曜日の昼間。もっと増やしたいんだけど、バレたらまずいから。バイトの申請内容に偽りがあると、停学になる。緊急で貸してくれる奨学金も申請してるけど……もらえるの、来年になるかもしれない」
「ええっ。来年って、そんなの緊急じゃないよね」
「景気が悪かったりで家計が急変するのは、おれん家だけじゃない。ここ、私立だろ。借りれる金も公立より高いから、予算が足りないと枠からはみ出ることもあるんだ」
春樹は、先月の自分の誕生日を思い出した。
父の会社の会議室で言われた言葉を。
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