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第一話・焔 第二章・3
従業員用の控え室で、春樹は温かいミルクティーをすすった。
甘いはずのミルクティーに、時おり塩味が混じった。
「仕事のこと?」
壬が新しいボックスティッシュを春樹の膝に置いた。ゴミ箱には、丸めたティッシュが大量に入っている。
春樹が首を横に振ると、壬は折りたたみの椅子を持った。
「今ね、予約客が入ってないんだ。僕は少し休憩するから、きみの好きなようにしてて。独り言、言ってみるとか」
壬は春樹から少し離れたところに椅子を置き、腰を下ろした。
「時間のことなら気にしなくていいからね」
春樹はティーカップを皿の上に置き、長い沈黙の後に口を開いた。
「できなかったこと、ありませんか……?」
「……はい?」
「あの……すごく好きな人がいて、その人のためなら何でも我慢できるくらい、すごく好きなのに……その人と、あれ……するとき……嫌なこと思い出したり、怖くなったりして……その…………」
それ以上言葉を紡ぐことができなくなった春樹は、ティッシュの箱に視線を落とした。
壬は一度立ち上がり、内扉の鍵をかけた。椅子を少し春樹に近づけて座り直す。
「好きな人とセックスするとき、客とのことを思い出してできないってこと? それなら僕もあったよ。好きな人に、完全に情が移るまではね」
「完全……に?」
「そ、完全に。ねえ、チョコレート好き? いただきものだけど、どうぞ」
作業机の上に、蓋をあけた缶が置かれた。甘い香りがする。
薄いプラスチックの区切りに入っているチョコレートは、ひとつひとつ、違った花の形をしていた。
「先にもらうね。きみはどれがいい?」
『高岡さんはどれがいいですか?』
春樹の顔が、本物の火で炙られたように熱くなった。
高岡と入ったフレンチレストランで、食後のチョコレートを選べと言われた。
春樹は高岡にも勧めたいと……何となく思い、どれがいいかと訊いたのだ。
遠回しで風変わりではあるが、あの日の高岡は、春樹に他人への気遣いの大切さを教えた。
短気な男が粘り強く、自分で考えろと言い続けた。春樹のために。
あの夜、ほろ苦い、背伸びをするような甘味が消えたとき、「おいしい……」と、敵意なく言っている自分がいた。
「どうしたの? 嫌いだった?」
春樹は椅子を蹴って立ち上がった。壬が口を開いて春樹を見上げる。
「ご、ごめんなさい! やっぱりちょっと無理です。こんがらがってて、上手く話せません。あ、あ、あの、シャツ、すごくいいです。あ、ありがとうございますっ」
新田との問題を話しているときに、高岡のことを思い出すなんて。
思い出すのもおかしいが、顔に火がつく理由がない。
どうかしている。壬だって迷惑なはずだ。
いくら男相手の売春をしたことがあるにせよ、こんな、とりとめのない話を聞く義理はない。
チョコレートが春樹を混乱させたと思ったのか、壬は缶をしまった。春樹に座るよう促す。
ぎくしゃくした動きで座った春樹の手に、壬の手が重ねられた。
「ジャケットとパンツ、明日までには縫い終わるから。いつでもいいから取りにきて。それとね、いつでもいいから、また話してみて。ガス抜きは大事だよ。恋にも仕事にも」
「め、迷惑じゃ……」
「迷惑なら最初から訊かないよ。話せることは話さないと、ほんとに精神からまいるから。体売ってると。食事と睡眠とストレス発散は必須。わかった?」
「わかり……ました」
壬に見つめられた。日本人形に似た黒い瞳は、真意を求めてはいないようだった。
「進めそう? こんがらがってても」
「……進みます」
「明けない夜はないからね」
うなずいた春樹のまつ毛が、少しだけ濡れた。
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