Cufflinks

第一話・焔 第二章・3


 春樹が玄関ドアを開けたのは、新田が帰ってから約二時間後だった。
 目が溶けるのではないかと思うほど泣き、泣きすぎて頭痛がするようになったころ、呼び鈴が鳴ったのだ。
 来訪者は近所のクリーニング店の主人だった。配達された洋服を受け取り、一礼してドアを閉める。
 新田が部屋を出ていってから施錠していなかったことに気付いたが、春樹は慌ても怖がりもしなかった。
 何も感じない。心がストライキを打っているかのようだった。
 袋がかかったままの洋服を、ダイニングの椅子に引っかける。
 伊勢原に乱暴された翌日、当日着ていた壬の服をクリーニングに出した。それが仕上がって戻ってきたのだ。

 『一度でも体を売れば何かが変わる』

 高岡に手を入れられた日、拷問部屋に行く前に、車の中で高岡が言っていた。
 だから新田と寝ておけと、高岡は言った。
 人と人との関係をそんなふうにしか考えられないのかと、あのときは高岡を軽蔑した。
(汚れていると修一に思われるのが……怖かった、のか……?)
 新田に体を押さえ付けられたとき、伊勢原の顔が浮かんだ。
 染みだらけの天井や汚れたカーペットを思い出し、アルコールで喉が焼ける感覚に支配された。
 逃れたかった。伊勢原の残像からも、あんな男と新田を重ねてしまった自分からも。
 しかし、それだけではないような気がする。
 昨日からある胸の黒いモヤが、今は大きく広がっていた。
 新田がいるはずだった椅子を見る。壬の服を包むビニール袋が、室内に射し込む日光を反射していた。
 塔崎と会うときは制服がいいのかもしれないが、他の客とのときはそうもいかないだろう。
 壬の服は佐伯からも褒められたし安心して着られるが、着たきり雀ではいつか叱られる。春樹も不便だ。
 冷蔵庫を開けた。氷水を用意する。冷えた水にタオルを浸して絞り、まぶたを押さえた。
 目もとの腫れがひいた後、寝室のクローゼットを開けて壬の店の袋を出した。袋の中には、店のカードが入っていた。営業時間と住所、電話番号が印刷されている。
 春樹は携帯電話を手にした。カードに印刷されている電話番号と、通話ボタンを押した。


「いらっしゃいませ。ちょっといい感じのシャツが入ったんだ。似合うと思うよ」
 壬の笑顔は前回同様気さくで、親しみやすいものだった。何着かの服を手渡される。
「シャツに合いそうな上下、スーツじゃないけど用意してみた。気に入ってくれたら、ポケットつけるからね」
 試着室に入って礼を言うと、壬は顔をくしゃっとほころばせた。
 花の香りは今日もよく似合っていて、小さな手も女性的だ。
 壬は以前、高岡に手を入れられたと言った。
 借金を抱えていたところを、たちの悪いサディストに買われ、援助を受けながらこの店を構えたとのことだった。
 言われなければ、とてもそんな人生を送っているようには見えない。
(僕は……僕はどう見られるんだろう。これから先、何人もの客と寝たら……)
 白のボタンダウンシャツも、一重仕立てのジャケットも、滑らかな生地のパンツも、すべて着心地が良かった。サイズも合っている。鏡に映る春樹だけが、この買い物を楽しめずにいた。
「直すとこある? 他のも見てみる?」
 レジカウンターにいた壬が、微笑んで言った。春樹は「いいえ」としか言わない。
 うつむいてばかりの春樹に何かを感じたのか、壬が従業員を呼ぼうとした。
 従業員と交代して春樹の話を聞くつもりなのだ。
「待って。待ってください。ごめんなさい、あの、今日は……あの……」
 シャツが入った袋を胸に抱えた。言葉の途中で震えた唇に、いとも簡単に涙が到達する。
「中庭に出る?」
 静かに訊かれ、春樹は首を横に振った。
 壬の華奢な手が、店内の隅にある内扉まで連れていってくれた。


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