Cufflinks

第一話・焔 第二章・3


 昼休みを迎え、学生食堂は黒山の人だかりだった。
 入り口にあるゲートの前に複数の列ができている。ゲートは駅の改札に似ていた。
 学生食堂を利用するには、ゲートで食券を手渡す必要がある。メニューの他にアレルギーの有無、稀ではあるが宗教によって食べられないものの交換要請、大盛りにしたいなどの希望を伝えるのだ。
 後ろから駆けてきた生徒の肘が春樹の頭に当たった。
「いた……っ」
 春樹は眉を寄せ、腹を押さえる。肘が当たったのは頭部なのだが、頭よりも腹部の奥の方が痛い。
「おい。ぶつかったんだぞ。謝れよ……って、瀬田(せた)! 何してんだよ?」
「あ、森本か。あの、ごめんな。わざとじゃないんだ」
 森本に言われる前に頭を下げていた生徒が、春樹に向かってさらに深く礼をした。顔の前で両手を合わせている。
「いいよ。わざとじゃないのはわかるから。森本と知り合いなの?」
「そ。おれたち、同じ中学なんだ。おい、瀬田あ!」
 瀬田は、代わりに答えた森本に背を向けて歩いていった。メニューのサンプルが入っているガラスケースの前に立つ。隅から隅まで見て、うな垂れてこちらに戻ってきた。
「どうしたんだよ。今日、ここで食うのか?」
 瀬田は頬を赤くして下を向いた。
「食いたいけど、金が足りない」
 聞き取るのが難しいほどの小声で言うと、瀬田は駆けてきた廊下へと戻ろうとした。
「待てって。悪ぃ、おれ抜ける。戻るかどーかわかんねーから、食っててくれ」
 春樹は腹をさすりながら森本を目で追った。うつむいて歩く瀬田の肘を森本が引く。
 瀬田は非常に大柄のため、春樹とほぼ変わらない身長の森本と並ぶと、親子のようだ。
 森本に押し切られるように、瀬田が廊下で足をとめた。壁に背をつけ、下を向いたまま首を横に振っている。
「あの……ごめん。僕もちょっと抜ける。食べてて」
 春樹は一緒に並んでいた級友たちに言い、森本と瀬田のところに向かった。


「……あの、よかったら、これ使って」
 春樹が差し出した食券を見て、口を開いたのは森本だった。
「何のつもりだよ」
「えっ」
「瀬田が金が足りないって言ったからか?」
 森本の声に怒りが感じられる。春樹は慌てて瀬田を見上げた。
 並の教師や三年生よりも頭ひとつ分は大きい体を縮こめている。顔は耳まで紅潮していた。
「ちが、違う。僕、たくさん食べれそうになくて……それで、あの」
「食べれない? へー。急に食欲なくなったってのか? そんな素振りなかったじゃん、お前」
 春樹の目の奥で、抑えていたものが切れる音がした。
「いちいちそういう素振りする必要があるわけ? 朝から少しお腹が痛いんだ。変な意味で食券出したわけじゃない。大体何で森本が怒るんだよ。関係ないだろ」
「関係ないことない。こいつはおれの友達だ。あの流れで食券なんか出したら、誰だってこう言うぞ!」
 冗談が混じっていない森本の怒声は、初めてだった。廊下の角で揉めている三人に、次々と視線が注がれていく。
 食堂の入り口で並ぶ教師もこちらを見ていた。
「森本、やめてくれ。ふたりともケンカしないでくれ。おれ、購買部で何か買うから」
 そう言い残し、瀬田が正面玄関ホールの方向に歩き出した。森本が後を追う。
 一度振り返った森本の目には、軽蔑と怒りが認められた。
「ま、待って。本当に変な意味じゃないんだ。ま……痛ッ」
 春樹の腹部に鋭い痛みが走った。走って追おうとした足がとまる。
 ひとりきりになってしまうのが怖くて追いかけたいのに、狂犬が付けた傷が邪魔をする。
「丹羽……? おい! 大丈夫か?」
 春樹は廊下の壁と壁が直角に交わる隅に顔を向けた。痛みの部位が移動する。
 下腹部の痛みはそのままだが、胸と腹の間が新たに痛んだ。
 ここが痛くなると決まって涙が出る。たちの悪い涙が。
「に……」
 森本の言葉が途切れた。
 壁を向いて目を覆う春樹が泣いているからだ。
 春樹は森本の腕を引っ張り、しゃくり上げながら言った。
「せ……先生に、見られたくない。森本、どこに行くの……? 僕も連れてって。ひとりきりは嫌だよ……」
 春樹の異変に気付いて戻ってきた瀬田が、食堂側に立った。人の目から隠してくれている。
 三人は支え合い、玄関ホールに向かった。


次のページへ