Cufflinks
第一話・焔 第二章・2
リビングの中央で、自分で敷いた布団の上に春樹はいた。
毛布は肩までかかっていて、足もとには笙子にかけた掛け布団がかけられている。朝の六時半だった。
伸びをした春樹は、不思議な感覚にとらわれた。
痛いところが一箇所もない。
笙子の手前と緊張から、体の奥に残る鈍い痛みと頭痛などは我慢していた。
熱い粥も口の傷に沁みたが、笑顔で食べていたのだ。
病院で処方された薬は、抗生物質と一般的な痛み止めである。
ひと晩ですっかり痛くなくなるほどの即効性があるとは思えない。
「笙子さんの……ちから……?」
立ち上がる。体が軽い。
トイレに向かう途中でキッチンを見た春樹は、口をあけた。
食器類も土鍋も、きれいに片付いている。高岡が洗ったのだ。これまでの経験上、間違いない。
春樹は心を動かさないようにした。淡々と身支度をする。
夢の中で嗅いだのは高岡の香りだ。
仕事を終えて笙子を迎えにきた高岡が春樹の毛布をかけ直し、洗い物をした。
これが高岡の日常なのだ。商品に対する、当たり前の行動なのだ。
こんなことに振り回される時間はない。いつまた伊勢原のような客がつくかわからない。
春樹はクローゼットの前に立った。蛇腹状の扉をあけ、扉の内側にある鏡に全身が映るようにする。
一度着た制服のシャツを、ゆっくり脱いでみた。
高岡と同じようには脱げない。照れると案山子になるし、度が過ぎるとコントのようだ。
脱いだシャツを着て、再挑戦する。脱いだり着たりを繰り返して、体が汗ばんだ。
もうやめたい。ばかみたいだ。
心は散々抗議したが、気力で抑え込んだ。外したボタンをはめていく。
『密室にいるお前を助ける者はいない』
鞭で打たれて浴室でレイプまがいのセックスをされた後、高岡はそう言った。
事実だ。今ならわかる。
春樹はシャツのボタンをはめ終えると、一度目をとじた。新田の顔を思い浮かべる。
新田の部屋で互いの体に触れたとき、服を脱ぐ新田から目が離せなかった。新田もまた、春樹の姿を見つめていた。
目をあけた。鏡から目を離さずに、恥ずかしさをこらえながらボタンを外した。
早く抱き合いたい。相手の肌に触れたい。触れられたい。
ただシャツを脱ぐだけなのに、いつもの自分とは違う。この高鳴りは何だろう。
シャツを脱いだら、暴れる鼓動を聞かれてしまうのではないだろうか。
口から熱い吐息が漏れた。目を伏せる。
見られたい。恥ずかしい。
それでも…………見て…………。
乾いた音をたてて、シャツが寝室の床に落ちた。
鏡の中の春樹は、新田の部屋で見た新田と同じ目をしていた。
欲望に彩られた、愛することを待っている目だ。
「これなら……少しは、まし……かな」
高岡ほどの色香はないが、大急ぎで脱いだときよりは形になっているように思う。
(修一……ごめん)
シャツを取る指先が震えた。
新田を想像して、仕事の練習をする。
間違っている。許されるわけがない。春樹は寝室を出た。
許されないのは承知のはずだ。貧困にあえいでも正しく生きてこそ新田にふさわしい。そんなこと、わかっている。
しかしこの部屋で暮らすのは、男とのセックスに嫌悪以外の感覚を抱くようになった男娼だ。
男娼になり、あれもできない、これもできないでは済まないところまできた。自力で生きると決めたのだ。
汚れたカーペットの上で人生を終えることはできない。
そんな終わり方をしたら、葬式に新田を呼ぶこともできない。
窓の外の空は、きのうと同じで曇っていた。テレビでは夕方から雨が降ると言っていた。
校庭に咲く花の水やりは、控えめにしておこう。
連休最終日に登校して新田の仕事をする。今の春樹には、こういう幸せで充分だった。
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