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第一話・焔 第二章・2
春樹の部屋に入るなり、笙子は「きれい」と言った。
「こんなにきれいなお部屋、滅多にない。アキラの部屋よりきれいなお部屋が、東京にもあるのね」
春樹は首をかしげた。
竹下がきのう掃除をしたので汚れてはいないが、滅多にないほどきれいな部屋なのだろうか。
高岡の部屋と比較されるのも、よくわからなかった。
狂犬の部屋は殺風景なだけだ。生活感はないが、チリひとつないという部屋ではなかった。
何よりも、あの部屋は怖い。いくら妹でも十七歳の少女だ。拷問部屋を見て何とも思わないのだろうか。
確か、拷問部屋は外から鍵をかけられた。
あの狂犬も、妹を招くときには猟奇的な空間を見せないようにしているのかもしれない。
「アキラは何も隠してないわ」
「……え?」
「座ってて。お粥でいい? 卵が……好きなのね。玉子粥にするから、一緒に食べよ?」
薄ら寒くなった。高岡の車中で気付くべきだった。
「え、エスパー、なの……?」
数歩下がって妙なことを言う春樹を、笙子は意に介する様子もない。
慣れた所作で米を洗い、ザルに入れて水を切る。
シンクの周囲をくるりと見渡して、一番端の戸棚をあける。土鍋を出し、大きな昆布も出した。
土鍋のある場所など春樹は知らなかったし、昆布があるということ自体、初めて知った。
高岡は二度、このキッチンで米を炊いた。味噌汁も作った。
一度目のときは春樹が始めて高岡に抱かれた翌朝で、かすかに物音がしていた。
はっきりと思い出したのは後になってからだが、引き出しや棚を開閉する音だった。
味噌などを探していたのだと思う。
笙子には一切の戸惑いがない。
春樹はダイニングの椅子には座らず、ソファに腰を下ろした。
「アキラといるときにすると、叱られるの。便利なのにね。わたしみたいな人のこと、エスパーって呼ぶの? わたし、テレビも本もほとんど見ないの。ラジオも。ハルキは……ハルキもテレビ、特に好きってわけでもないのね」
駅ビルのハンバーガー屋で高岡が春樹の名を呼んだとき、笙子もそばにいた。
名前はそのときに覚えたのかもしれないが、玉子料理が好物だということやテレビがさほど好きではないということを、高岡が笙子に教えるとは考えにくい。
春樹はクッションを引き寄せた。少し寒くなってきた気がする。
笙子が振り返り、小さな声で言った。
「嫌なら嫌と言ってね。仲良くなってから去られるのが、一番つらいから」
取り立てて大きな悲しみがあるようでもないが、笙子には覇気がない。
あきらめが表情の一部になってしまっているように思えた。
他人の好き嫌いを言い当て、初めて使う台所で頻繁に使わない調理器具を見つける。
いつから人の内側を探っているのかわからないが、良いことばかりではなかっただろう。
病院で見た涙は、作り物ではなかった。
「僕はエスパーじゃないけど、仲良くなってから去られるのがつらいのは、わかるよ」
春樹はクッションの上にあごを乗せた。
ソファの上で、膝と胸の間にクッションを抱く。
ひとりには少し広い部屋で、小さいときからしている姿勢だった。
「僕、ひとりでここに住んでるんだ。食事もひとり。学校の友達の中には、うらやましいって言う奴もいる。僕と仲良くなればここで夜遅くまで遊べると思って、気も合わないのに友達になろうとする奴もいる。毎晩来られても困るって言うと、怒って絶交される。真意を見抜けない僕がだめなんだけど、やっぱりつらいから」
笙子が自分の口の前で、人差し指を立てて言う。
「ごめんなさい。嫌なこと思い出させたみたい」
「大丈夫だよ。お粥食べたら、きっと元気になるよ」
笙子は微笑みを返し、調理を再開した。鈴の音に似た声で、使いやすいお台所ね、と言う。
春樹は体から力が抜けるのを感じた。高岡の車の中で笙子に触れられたときとは違う。
きれいに掃除されたキッチンで、竹下とは違う女性が玉子粥を作ってくれる。
新田に恋をしなければ、男相手の売春をしなければ、こういう生活が待っていたのかもしれない。
あれこれ考えるのはやめた。笙子は念じれば、春樹の恋も後悔も見抜くのだ。
「笙子さん。どうしてあのハンバーガー屋にいたの? 高岡さんに誘われたの?」
明るい声を出してみた。笙子がダイニングの椅子に座った。
極弱火にしたコンロの上で、土鍋がくつくつといい出した。少しずらした蓋の隙間から、白い湯気が上り始める。
「わたし、調子がいいとたまに東京に来るの。いつもは東京駅までアキラが迎えに来てくれるんだけど、あの日は急に、あの駅で降りたくなったの。降りてみたらアキラがいた。アキラは他のお店に入ろうって言ったんだけど、わたしがあのお店がいいって言ったの」
「ハンバーガー、好きなの? 何も食べてなかったみたいだけど」
笙子は答えず、微笑みを浮かべた。鈴の音の声に花の微笑みのセットは強力だ。
クッションをしっかり抱いていないと、心臓の音を聞かれそうだった。
「アキラ、わたしのこと何か言ってた?」
「えっと……ナンパされたのは俺のほうだ、かな。高岡さんが笙子さんをナンパしたって、僕が言ったから。携帯電話の、赤外線通信をしてたように見えたんだ」
笙子は声をたてて笑った。兄と違い、可憐で清らかな笑い声だった。
「説明するのが面倒だったのね。最近になって携帯電話を買ってもらったんだけど、アキラに見せたらすぐに電話番号が飛んできちゃった。便利なのね」
何と答えていいかわからなかった。
葉山には行ったことがないが、笙子がどういう暮らしをしているのか想像がつかない。
調子がいいときに上京するということは、療養中なのだろうか。病気には見えないが。
粥の甘い香りが漂ってきた。笙子が鍋の蓋をあける。
「いい匂い。笙子さん、お料理上手なんだ」
卵を割りほぐす笙子が、飾り気のない笑顔を向ける。
化粧など必要としない、若くて清潔な肌がまぶしかった。
こんなにきれいな妹なら、狂犬でも心配になるのは不思議ではない。
「ハルキ、食べよ。お粥はあったかいうちがおいしいよ」
鈴の音が、春樹を誘った。
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