Cufflinks

第一話・焔 第二章・2


 診察も終わり、院内処方の薬ももらった。
 体の痛みは、顔をしかめなくてもいい程度に落ち着いた。
 肛門には裂傷などもなく、帯が食い込んだところも痕にはならないと言われた。
 殴られた頭部と頬、口の中は痛んだが、脈打つような痛みではなくなった。
 春樹は医師に訊いてみた。手を入れられたから後ろの穴が無事だったのか、と。
『手……? フィストファックのことを言っているの? それはまた乱暴だね。まあ確かに、そういう事例もあるけれどね。ここは出すところで入れるところではないから、無理なことをしてはだめだよ』
 医師は春樹の仕事を知っていて、通報などしないように指示されているようだった。
 それでも春樹がさせられている行為への認識は、こんなものなのだろう。
 売春、客は男。最低の仕事なのだ。
 会計を終えた稲見が廊下の端にいた。稲見の向こうにスカートが見える。
 春樹の姿を認めた笙子が、何のためらいもなく駆け寄ってきた。
 腰をかがめて春樹の腕を取り、握ってくる。春樹の心臓がまた移動しそうになった。
「あ、あの。笙子さん」
「高岡さんは仕事に戻られたよ。仕事が終わるのは明け方になるそうだ。笙子さんをきみの部屋にいさせたいそうだけど、構わないよね」
「はいっ?」
 あの常識外れの狂犬が。何を考えている。稲見もだ。構わないわけがない。
「こっ、困ります。僕だって一応男ですし。笙子さんどこに住んでるんですか? ご自宅に帰られたほうが……それが無理なら高岡さんの部屋とか、ホテルとか」
「ホテルは嫌……!」
 笙子が春樹の腕を強くつかんだ。顔が真っ青で、ひたいには汗が浮いている。
「笙子さんの住まいは葉山だそうだ。十七歳も離れていると、心配でならないらしい。彼が私情を挟むのはこれが初めてだし、頭を下げられては、どうもね」
「十七? 笙子さん、十七歳なの?」
 笙子の代わりに稲見が「そうだよ」と言った。
 汚れ仕事では上をいく高岡に頼み込まれたからか、稲見の声からは刺が消えていた。小さな自尊心を取り戻したらしい。
 物静かな態度と高岡似のすらりとした背丈から、春樹は笙子が二十歳前後だと思っていた。
 十七歳なら、十六歳の春樹とほぼ変わらない。新田と同じ年齢だ。
「そんな、困りますっ。はず、恥ずかしいです」
「きみなら心配ないだろうと高岡さんもおっしゃっている」
 どういう意味だ。
 高岡も稲見も春樹を一人前の男として見ていないのはわかるが、笙子の前で言わなくてもいいだろうに。
「お願い、一緒にいて。ひとりにしないで」
 笙子の手の力が強くなった。春樹の心臓が腕に移る前に、血がとまってしまいそうだ。

 『妹は病院が苦手でして』

 稲見はすでに駐車場に向かっている。春樹は笙子の手に自分の片手を添えて、小声で訊いた。
「病院、嫌いなの? ホテルも?」
 笙子は二度、深くうなずいた。よく見ると、長いまつ毛が光っている。
「泣かないで。うちでいいなら、いていいから」
 顔を上げた笙子と視線が交わった。
 笙子の目は、澄んだ泉を連想させた。
 高岡に似た長く濃いまつ毛が、高岡より色素が薄い瞳の目を縁取っている。
 高岡の目は動物か外国人に似ているが、笙子の目はガラス細工だった。西洋人形の目だ。
 伊勢原に陵辱されて傷付いた春樹を、笙子は大丈夫だと慰めてくれた。
 頭の中に直接声が飛び込んできたのだが、あれは間違いなく笙子の声だった。
 不安なときに、理由も性別もない。
 春樹は笙子の手を引いて稲見の社用車に乗った。
 耳まで熱くて心音は笙子に聞かれそうだったが、そんな小さなことに構う理由もなかった。


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