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第一話・焔 第二章・2
「やはりこちらでしたか」
春樹の左側から、聞いたことのある声がした。
客のもとへと春樹を運ぶ、父の社の者の声だった。
「イナミ……さん」
今度は右側から女性の声がした。笙子の声だ。抑揚がなく、震えている。
春樹の視界が明るくなった。薄い紫色の長椅子に座っている。
喧騒と、きつい消毒薬の臭い。足早に行き交う看護師たち。
春樹の口から声が復活した。
「病……院?」
怪訝な目で笙子を見ていた社員が、春樹に視線を移した。
長椅子の一番端に高岡、真ん中に春樹がいて、春樹の右腕を笙子が握りしめていた。
春樹は高岡にもたれて眠っていたようだった。
叱責の緊張から春樹の背筋が伸びる。背中を冷や汗が伝った。
「大変だったね。もう大丈夫だよ」イナミと呼ばれた社員が言った。
「……面倒かける、な。世間は……連休だと、いう、のに」
「申し訳ありません、稲見さん。妹は病院が苦手でして。僕も仕事に戻らなくてはなりませんし、後はお願いできますか」
「あ、ああ、いいですよ」
高岡が笙子の言葉を遮るように口を挟んだ。笙子の手をとり、稲見に春樹を押し付ける。
稲見に一礼して、笙子とふたりで通用口らしきところに向かっていった。
「妹……? 笙子さん、高岡さんの妹さんなんですか?」
「そのようだね。彼には異母兄弟が多いから。資料でしか知らないがね」
稲見の声は刺々しかった。荒い動作でネクタイを緩める。
笙子の言葉を気にしているふうだった。
「……ナンパしたのかと思ってた」
稲見が眉間にしわを寄せて春樹を見る。口を押さえても遅かった。
「ナンパ? 高岡さんがナンパを?」
「あの、思い違いです。学校の近くの駅ビルで、高岡さんが笙子さんと一緒にいるのを見かけて……」
「彼は完璧主義者だ。依頼された躾をしている時期に恋愛はしない。遊びであってもね」
稲見が胸ポケットに手を入れる。煙草を取り出すが喫煙場所がないためか、舌打ちをして目をとじた。
接待道具である男娼の送迎など、汚れ仕事もいいところだ。
稲見の具体的なポストや給与などは見当もつかないが、普通の男なら嫌がる仕事だろう。
十六歳の男娼に作り笑いをして、SMクラブの経営者と会話をする。
四十がらみの男が世界的な大企業でする仕事ではない。
「ごめんなさい、ご迷惑かけて……」
笙子の言葉を受けたわけではない。他に言葉が浮かばなかっただけだ。
稲見は長椅子の上で脚を組んだ。険しい顔を前に向けたまま口をひらく。
「アルコールが抜けた伊勢原様から、連絡があった。詫びられていたよ。きみに悪いことをしたとおっしゃっていた。社としては大事(おおごと)にするつもりはない。きみにもそのように振る舞ってほしい。できるね」
「……はい」
父の社は大きく、伊勢原は上客だ。
非道な仕打ちをされても、太刀打ちのしようがないではないか。
「アルコールをお飲みになるのを、とめられなかったから……」
「ああ、それはいいよ。そこまで期待はしていないから。大きな事故にならなかっただけ、よしとしないと」
春樹の腹の底で、血が沸騰した。
いつか、言い返せるだけの仕事ができるようになるのだろうか。
平手打ちをする高岡の手を払いのけ、稲見を黙らせる存在になれるのだろうか。この自分が。
侮蔑に対しては人並みに敏感で、そのくせ何もできない自分が。
怒りと自分の内面への関心とで、名前を呼ばれたことに気づかなかった。稲見に肩を叩かれる。
「呼ばれたよ。先生には丁寧にご挨拶しなさい。きょうは休日診療で担当医の方とは違うが、礼儀だから。定期的な検診も含めて、ここにはお世話になるのだからね」
春樹は礼だけをして長椅子から離れた。一度振り返ったら、稲見はあくびをして腕時計を見ていた。
(悪かったな。世間は連休なのに客とのトラブルを起こして。でも、これがあんたの仕事なんだろ)
口もとが、ぴくっとなった。
怪我をした商品を平気で叩く狂犬と、慇懃無礼(いんぎんぶれい)な社員のおかげで、足どりがしっかりしてくる。
新田の次に重要な支えは、反抗心であるような気がした。
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