Cufflinks

第一話・焔 第二章・2


 高岡が使用した駐車場は屋外にあった。
 曇っていてよかった。傍若無人な客にいいようにされ、体はふらついている。
 前を歩く男には優しさのカケラもない。手も引かなければ、歩調も変えない。
 こんなときに明るい太陽の光など浴びたら、心身共に干上がるに決まっている。
 高岡のキザな外車が視界に入った。同時に、後部座席のドアがあいた。
「乗って」
 鈴が鳴るような声とは、こういう声をいうのかもしれない。
 などと聞き惚れている場合ではない。春樹は前後左右の車を見た。
 少し遠くにある車も見るが、高岡の車は、これだ。この、目の前にあるもので間違いはなかった。
「アキラ、いいでしょ?」
 後部座席で微笑むのは、高岡が先日ナンパした女性だった。
 あの日とは服装が違うが、揺れるときらめく黒いストレートヘアも、清楚で美しい顔も同じだった。
「あ……一緒にいたときに電話して、ごめんなさい」
 女性の言葉は無視した高岡だが、春樹の言葉には反応を示した。恐ろしくきつい眼光で一瞥をくれる。
「お前の無駄口を聞く暇はない」
 春樹が乗り込む前にエンジンがかかる。春樹の態度が気に入らないのか、デートの邪魔をされて怒っているのか、不機嫌さを隠す気などないらしい。
「シートベルトをしろ。笙子もだ」
「しょうこ……さん?」
「笙の笛の、笙子。動かないで。痛いでしょう、可哀相に」
 笙子がシートベルトを締めてくれた。ルームミラーの中で合った高岡の目は、最高潮に苛立っていた。
「笙子。自分でさせなさい」
「今だけだから。怒らないで。ね? アキラ」
 高岡がサングラスをかけた。かけるときに春樹を睨むことだけは忘れない。
 車が発進した。急な加速も、強引な車線変更もなかった。
「手を出して」
 笙子は両手で春樹の右手に触れた。肉が薄く、少し冷たい手に挟まれる。
 春樹は自分の右手に心臓が移動したような感覚に襲われた。
「あっ、あの、あのっ」
 春樹が触れたことのある女性は限られていた。竹下と学友、教師や看護師くらいしかいない。
 新田を好きになる前は、春樹も女の子に興味があった。だが、自分から話しかけたことはほとんどない。
 学校行事で手をつないだり、文房具を拾ってもらったりして手が触れるとき、春樹はリンゴのように赤くなる。
 女顔の春樹が女の子に触れて恥ずかしがるのを、面白がらない級友のほうが少なかった。
「あ、あ、あ、あ、あのっ!」
 春樹の声が裏返った。運転席から吹き出す音がする。
 声をたてないように我慢しているのか、高岡の肩が震えていた。大人げない男だ。
「何も考えないで。今は忘れて……」
 どういう意味か確認しようと笙子を見る。
 肩の少し下まである黒髪が、スローモーションで揺らめいた。
 力が抜けていく。
 右手から始まり、右腕、右肩、首、頭部、反対側の腕全体、胴、脚。
 口をひらこうとしても、ほんの少ししか動かない。かろうじて動くのは目だけだった。
 その目も、上のまぶたが重力に耐えきれなくなっている。

  目をとじて。大丈夫。怖くないから。

 脳の中に、鈴の音がこだました。
 旋律を持った音の連なりを、女性の声、笙子の言葉だと認識する。
 理性が足掻いた。何度も暗闇に落ちそうになりながらルームミラーを見る。
 サングラスを通す高岡の目は判然としない。

  この子は怖い目にあった。大丈夫よアキラ。この子は弱くないから。

「…………うそ、だ……」
 車がとまった。高岡が直接振り返った気がしたが、春樹はもう動くことができなかった。
 笙子の両手が右手から離れる。
 高岡から隠すように包まれた春樹の頬には、いつの間にか涙の曲線が描かれていた。


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