Cufflinks
第一話・焔 第二章・2
腹があたたかい。胸も、腕もあたたかかった。
石鹸の香りと何かを絞る音、まだ片付けていないファンヒーターの送風音がする。
清潔であたたかい布だ。それが春樹の体を拭いている。
石鹸を溶かした湯にタオルを浸し、固く絞って拭いている。
「だ……れ……」
自分を拭く人物に目をやった。高岡だった。
「きょうは何月何日の何曜日だ」
「…………え?」
「きょうの日付を答えろ」
ヒヅケ? ヨウビ?
先月は……三月……違う。四月だった。気がする。
四月だ。新田と出会った。
春樹は起き上がろうとした。高岡に押さえられる。
「まだ起きるな。枕もとに新聞がある。きょうのものだ。日付を読み上げろ」
視界の端にあった新聞を取る。爪に血がついていた。高岡を見ると、視線で日付を催促された。
「ご……五月、七日。木曜日」
新聞が取り上げられた。そのまま手をとられる。
あたたかいタオルが、血のついた指先を拭った。
「お前はひとり暮らしだ。今夜のように完全に焔に巻かれると、下手をしたら混乱したまま翌朝を迎えることになる。お前はひとりで起きて朝食を食べ、その日の授業に合った用意ができるか?」
即答できない。
どうしてかわからないが、心が揺れている。頭は空っぽだ。
パン! という音がした。高岡が手の甲で新聞を叩いた音だった。
「最低でも日付は見ろ。そして理解しろ。お前は高校に通って勉強をし、新田と恋をする。この仕事を隠しながらだ。すべてはお前の気力にかかっている」
毛布が肩までかけられる。タオルが湯に浸かる音がした。
新聞は毛布の上に置かれた。春樹は新聞をひろげ、すべての紙面の日付を見る。
先ほどの自分は何だった……?
日付や曜日の意味がわからなかった。そんなものがこの世にあるのかと思った。
「本当の────焔」
春樹の手から、ばらけた新聞が落ちた。
「高岡さんは、さっき逃げなかった! 僕を突き落としておいて、僕と一緒に巻かれた! 高岡さんも焼かれたんでしょう? 熱かったから、苦しかったから、つらそうな顔してたんでしょ? あの、溶鉱炉みたいなのが底なんだって知ってた。それなら教えて! 僕は堕ちるの? どこまで堕ちるの? どうなるの?!」
高岡は一度手にした洗面器を、ミニキャビネットの上に置いた。再度起きようとした春樹の肩を押す。
嫌がる春樹の肩や腕を、子どもを寝かしつけるように軽く叩いた。
「俺には笙子の声も聞こえないし、溶鉱炉も見えない」
春樹は高岡の目を覗き込んだ。
高岡の、灰色に光る瞳の底は平穏な状態に見えた。
「病院に向かう車の中で、笙子の不思議な声を聞かなかったか」
「き、聞きました。耳じゃないところで。鈴が鳴る、音楽みたいな声です」
「笙子の声を聞いた者は、皆が音楽のようだと言う。俺は一度も聞いたことがない。口から出る言葉しかわからない。それと同じで、焔を持つ者を抱いてもわかるのは熱さだけだ。今夜のような抱き方をすれば息苦しくはなるが、何が底なのか見ることはできない。火山と表現する者もいれば、燃えた巨大な車輪が追ってくると言う者もいる。彼らの話を聞いて推察しているに過ぎない」
高岡は新聞を拾い集めた。
目を伏せて静かにたたむ姿を見る限り、今夜の行為が夢だったのではと思えてくる。
春樹を殺しても構わないというような、ひどい所業をした男には見えない。
「いいか春樹。目の前のことから着実に実行しろ。新聞を読むときはまず日付からだ。習慣にしろ。努力を惜しむな。焔があるから堕ちるとは限らない。どんな生活をしていても日付も把握できないようでは、際限なく堕ちる」
「でも、逃げないんですよね……?」
洗面器に伸びた、凶暴な男の手がとまった。
「高岡さんは焔の底は見れなくても、人の堕ちる先は知ってる。僕のこと、つかまえててくれるんですよね」
「……言ったはずだ」
高岡が洗面器を持った。今度は何があっても置き直さない、そんな持ち方だった。
「俺は戦績を汚さない」
春樹の予想どおり、洗面器は置かれなかった。
人の心を揺らすだけ揺らして、狂犬は振り返らずに出ていった。
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