Cufflinks

第一話・焔 第二章・2


 春樹がバスローブを羽織って部屋に入ると、高岡が冷蔵庫の中を見ていた。
 缶のウーロン茶を出して春樹を見る。
「これをビールに見立てる。お前が部屋に入ってからの様子を再現しろ」
「……伊勢原様は服を脱げとおっしゃって、ビールを飲みました」
 春樹は脱ぐ真似をした。恥ずかしくなってくる。茶番を演じているようだ。
「お前は何か言われたか」
「色っぽくないな、って」
「そうだろうな」
 ベッドはきれいに上掛けがかけられていた。
 上掛けの上に腰を下ろしていた高岡が、きょう初めての笑みを見せた。
「ここに座れ」
 高岡はウーロン茶の缶をサイドボードに置き、春樹と場所を交代する。
「言っておくが俺は上手いほうではない。参考程度にしろ」
 春樹が口をあけて見ている前で、高岡は濡れたワイシャツを脱ぎ始めた。
 決して媚びることなく、体をしならせたりもしない。光る目を伏せ気味にして、ゆっくりボタンを外していく。
 それだけの行為だったが、案山子(かかし)のように突っ立っているわけではなかった。
 人の顔は左右対称ではない。高岡はどちらかというと、向かって右から見るほうが多少は柔和な表情に見える。
 それを熟知しているのか、攻撃的に見えない側を多くこちらに見せているようだった。
 高岡の所作には照れも迷いもない。たまに見せる横顔に、憂いのようなものが見え隠れしている。
 シャツを脱ぎ終わり、春樹を見つめる瞳が熱を持っている気がした。春樹は思わず顔を伏せた。
 照れがないのに、強い色香がある。いつもは怖い目が熱い。何度も触れたはずの肌が象牙のようだった。
 知らない男にしか見えない。春樹は下を向き、生唾を飲み下した。
「どうした。喉でも渇いたか」
 気がつくと、高岡は片膝をベッドの端に乗せていた。
「は、はい」
「それならそれを飲むふりをしろ」
 高岡の目がサイドボードの上のウーロン茶を見る。春樹は冷えた缶を手に取り、あおる真似をした。
 缶を持つ春樹の手に、高岡の手が重なった。
 驚いた春樹の手が滑った。高岡が落下する缶をキャッチする。
「僕では酔えないと思うから飲まれるのですか? 寂しい……」
 春樹の耳もとで、知らない男の声がした。
 知らない男ではない。高岡だ。
 高岡だが、こんなに甘い響きの、本当に寂しそうな声は耳にしたことがない。
「た、高岡さ……あっ!」
 高岡の手が、遠慮がちに春樹の膝から内腿にかけて撫で上げた。
 勃ってしまいそうになり、春樹は両手で股間を押さえた。
「どうやって飲まされた」
「ち、力ずくで」
「やってみろ」
 春樹は高岡の二の腕を引いた。力を入れていない高岡が体勢を崩し、ベッドに手をつく。
「こうやって腕をつかまれて、ベッドに突き飛ばされて……」
 本当に突き飛ばしていいものか迷った春樹に、強い衝撃が加わった。
 春樹の胸の上部を高岡の掌底が突いたのだ。手の平の、厚い部分で瞬間的に押された。
 それだけで、足が上に向くほどの勢いでベッドに仰向けになった。
 息を吸おうとしたら咳が出た。声が出ない。
「無体なことはやめてください! 人を呼びますよ!」
 仰向けのままの春樹に、高岡は堂々と言い捨てた。
 色気はきれいさっぱり消えていた。
「ひ……人、を……?」
「これくらいのことは言っていい。最初が肝心だ。あの男娼は頭が弱いとなれば、よからぬ客を呼ぶ。相手を突き飛ばすのは一度だけにしろ。指先は当てないように、肘から先を一気に伸ばしてすぐに引く。自信がなければ無理にするな。中途半端な抵抗ならしないほうがいい」
 押し黙るしかなかった。春樹がしたのは中途半端な抵抗になるのだろう。
 抵抗していた最中は、いくら必死だったとしても。
「今のはすべて、伊勢原様が御執心の男娼の手口だ。このとおりにやれなくてもいい。毅然とした態度で最低限の拒絶だけは示せ」
 春樹の口からは、返答ではない音声が漏れた。嗚咽の声だった。
「泣けと言った覚えはない」
 シャツのボタンをすべてはめた高岡が、春樹を睨んで一喝した。
「何が悔しい。客に思ったような扱いをされなかったことか。俺を呼んだことか?」
「……こ……怖かった。怖かったんです。殴られて、あんな、あんなこと」
 高岡が愚かな者を見るような目を向ける。
 手櫛で髪を押さえながら、侮蔑の笑いを浮かべて言った。
「オツムが弱いのはわかっていたが、ここまでとは。あんなこと? 客に殴られ、酒を飲まされた。縛られて無理矢理抱かれた。男娼の世界では『あれしきのこと』だ。この部屋も遊ぶ時間も客の素性も社が把握し、お前はこのとおり立派な口がきける。お前は何のために俺を呼んだ。慰めて欲しいのか」
 春樹は顔を上げた。言い返そうとするが、言葉が出てこない。
「伊勢原様に一矢を報いたいか? 俺に報復したいか。そのオツムと意気地ではどちらも無理だな。伊勢原様は上客だ。商品を傷付ければ制裁はあるが、上客はその限りではない。この程度のことで騒いでいられる身分だと思うなら、十年早いぞ」
 涙がとまった。怒りで涙がとまるのだと、初めて知った。
 この狂犬になどわかるはずもない。こいつは人を傷付ける側の男だ。
 鞭を振るい、手を入れ、心も体も侵略する。
 人の大切なものを奪って言いなりにさせるのが仕事であり、性分なのだ。
 汚れたカーペットの上で助けを待つ経験などないのだろう。
 高岡はもうスーツのジャケットを着ていた。濡れたシャツも、ジャケットを着ればおおかた隠れる。
 クローゼットをあけ、春樹の服をベッドの上に投げてきた。
「伊勢原様は汚い遊び方はなさらない。身元が不確かな者には指一本触れられない。病気の感染を心配する必要はまずないが、外傷があるので受診をする。支度をしろ」
 春樹はバスローブの紐に手をかけた。高岡を見ずに言う。
「病院くらい自分で行けます。高岡さんに連れてってもらう身分じゃありませんから」
 スパーン! と、すがすがしい音がした。
 痛いと言う間もない。頬に火がつき、ベッドの上に横倒しになった。
 打たれた頬を押さえて見上げた高岡は、鞭を振るったときと同じ顔をしていた。
「お前にはほとほと呆れる。どんなに経験を積んでも不可抗力による事故はある。ましてやお前はオツムも弱く非力だ。お前は何かを得ようとしたか? 最低限の抵抗を教えても、真似のひとつもしようとしない。泣くかふて腐れるかだ。よほど自分が可愛くないとみえる」
 春樹は身を起こした。ベッドについた腕が震える。
 高岡は商品がこんな目にあっても慰めたりはしない。
 肉体的なダメージだけを確認し、自分の戦績が無事だとわかればそれでいいのだ。
 よくわかった。
「俺をグズアレルギーで殺す気か。早く着替えろ!」
 高岡がドアの前でこちらを睨む。春樹は無言で服を着た。


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