Cufflinks

第一話・焔 第二章・2


 自宅マンションのドアをあけた春樹は、軽いめまいを感じた。
 玄関に外国製の紳士靴が一足。ひとりになりたいという、小さな願望すら満たされないのか。
「ただいま帰りました」
 リビングに入り、棒読みで言う。
 悪質な訪問者はダイニングテーブルで新聞を読んでいた。今朝届いたものだ。
 春樹が持つ花束を一瞥する。
「あの……新聞、ありがとうございます。この間も助けてくれて、ありがとうございました」
「塔崎様か」
「は…………あ、いえ……その」
「この辺りで制服姿の少年を好み、花を贈る紳士の代表格が塔崎様だ。この手の事情に通じている者は俺の他にもいる。客の名を隠す注意を怠るな。何故花束を持ち帰った。あすの午後も家政婦は来るのだろう。どう言い訳をする」
「……言い訳、わかりません。でも捨てるのは……可哀相で……」
 笑われるか叱られるかだ。それならそれで、高岡に捨てさせよう。
 この男なら何の迷いもなく捨てるに決まっている。少しは罪悪感から逃れられるかもしれない。
「冷えたものを飲み、そこに座っていろ」
「えっ、はい」
 高岡は春樹から花束を取り上げると、シャツを肘までまくった。
 キッチンからリビング、和室の押入れまでひととおり見て花瓶を四つ持ってきた。
 それらをすべてシンクに置き、花束の包みを解く。
 キッチン鋏で茎を切り、花を活けていった。
「今後花を贈られても、お前は極力触るな。手が荒れる。家政婦が来るまで時間があるようなら、包みの下部を切って水につけておけ。家政婦には自分で買ったと言えばいい」
「自分で?」
「お前は園芸クラブに所属している。花に興味が出ても何の不思議もない。高価な花束だと言われても動じるな。花が可哀相というのに言い訳ひとつ用意できないなら、自分の買い物で押しとおすしかないだろう」
 高岡が捨てる選択肢を選ばなかったのは意外であったが、言われてみればそのとおりだ。
 竹下は母のように春樹を気にかけてくれても、必要以上に口を差し挟める立場ではない。
 春樹が堂々としていなければ、余計な心配をかけさせるだけかもしれない。
「ところで仔犬ちゃん」
 花を生け終えた高岡がダイニングの椅子に腰を下ろした。春樹は飲んでいたペットボトルの水を置く。
「新田と新聞を読んだ成果を披露してもらおうか」
「え、あ……えっと、ひ、ひとコマ漫画は政治の漫画で、ええっと……一面のコラムは、何だっけ。ほ、本質が……何とかで、お菓子の会社は父の会社でした。たぶん」
 笑いを噛み殺す音がした。
 目の前に座る高岡が、フレンチレストランで見たときのように目のあたりを手で覆っている。
「今までに聞いた受け売りの中でも秀逸を極めるものだ。新田と自分の違いがわかったか」
「……はい」
 春樹は顔に火がつくのを感じたが、下は向かずに高岡の顔を見た。
 睨むようになったためか、高岡はさらに顔を横に向けて笑った。
「わかればよろしい。本質が何とかは、思い出せなければ再度新田に教えてもらえ。菓子の販売元の親会社、つまりお前の父親の会社は、菓子だけを手がけるわけではない。重機や化学製品、起業のバックアップ、エネルギー事業、食や衣料を含めた生活用品全般など、多岐にわたる。関連会社も一流揃いだ。新田に親会社がわかったということは、日頃から世情に接している証拠だ。新商品の記事には製造元や販売元は書いてあっても、親会社などとは書いていなかっただろう」
「は、い……そういえば」
「考えて読めばわかるようになる。他に印をつけた箇所でわからないところはあるか」
「日付につけた理由がわかりません」
 高岡は切れ長の目をこちらに向けた。
 いつもの底光りは健在だが、怒っているようには見えない。
「きょうは何月何日の何曜日だ」
「……え? あ、あのっ、ごが、五月七日の……木曜日です」
「即答とは言い難いが、いいだろう。シャワーを浴びる必要があれば俺の後に浴びろ。水を置きたければ持ってこい。先に寝室に入っている」
「え……」
「日付に印をつけた理由がわからないと言ったのはお前だ。教えてやる」
 高岡は立ち上がり、浴室に向かった。春樹は口をあけて見送ることしかできない。
 狂犬がここに来てやることはひとつだ。
 体調が悪いと嘘をつけば避けられたのかもしれないが、それももう遅い。
「何だよ……日付につけた理由なんて、今言えばいいだろ」
 春樹は極めて小さな声で言い、ダイニングテーブルに顔を伏せた。


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