Cufflinks
第一話・焔 第二章・2
用具倉庫は少し肌寒かった。
春樹は新田とふたりで座るための棚を整理した。
用具倉庫の外にある水道で雑巾を濡らし、丁寧に拭く。
新田はここで話し込むとき、いつも先に来て拭いていた。
クラス委員の仕事の合間を見つけては、春樹が快適に過ごせるようにしてくれていたのだ。
雑巾をすすいでいたら、新田が走ってくるのが見えた。
「春樹、春樹。聞いてほしい」
新田は扉をしめるのもそこそこに、春樹を強く抱きしめた。
「な、なに? 修一、聞くから、扉、ちゃんとしめよ。ねっ」
新田の鼓動は乱れていた。走ってきたためだけではないような気がする。
春樹は鍵代わりの棒を引き戸にかませた。新田の手を引いて棚に座る。
新田が下を向いて話し始めた。
「きょう、下駄箱で偶然、森本くんと会った。昼休みに。立ち話だったから、間違えてたら謝る」
級友の森本は、学生食堂に着いた時点で食券を忘れたと言った。
食券は食堂の他にも購買部で買うことができる。
生徒のほとんどが食堂を利用するため、購買部は昼、比較的空いていた。
購買部への抜け道として、旧校舎の下駄箱があるホールを突っ切るのはよく知られていた。
新田のクラスは旧校舎に近い。ホールを通ることも多いのだろう。
「彼は連休中に一度、お前と早朝の校庭掃除と水やり、してくれたんだな。その後で駅ビルのバーガー屋に入ったって言ってた。そこで、高岡さんに会ったんだってな」
「え……っ」
春樹の顔が強張った。森本にも、あの凶暴な男は遠い親戚だとしか言っていない。
何も疑われるようなことはないはずだ。
「俺……心配、してたんだ。高岡さんは、あの容姿だろ。T大に一度は入った実力者だし、仕事もできそうだし……。だから、お、お前を……盗られそうな、気がして」
「…………ええええッ?!」
新田が顔を上げる。面と向かった新田の顔は真っ赤だった。
春樹が女の子と手をつないだときに揶揄されるときと、まったく同じだった。
「ごめん。ばかなこと言ってるって、わかってる。でも俺、高岡さんが女性と会ってたって聞いて、ほっとしたんだ。女性もきれいな人だって聞いた。高岡さんが普通に女性に興味のある人でよかったって、思ったんだ」
「修一……」
「男の俺たちが互いに好きなら、高岡さんにもお前に……親類以上の感情を抱く機会があってもおかしくない、なんて、ばかげたこと思った。ごめん、春樹。本当にごめん。お前にも高岡さんにも失礼なのは、よくわかってるんだ。でも」
新田はまたうつむいた。前髪の生え際が汗で光っている。
「き、気が気じゃなかった。高岡さんは優秀な人だ。太刀打ちできないって思った」
用具倉庫を沈黙が襲った。
春樹の頭の中では、高岡から受けた数々の蛮行が飛び交っている。
新田は新田で、リンゴに似た色の顔をさらに下に向ける。
「ごめ……」
「謝っちゃだめ!」
自分を奮い立たせるために出した大声に、新田が目を丸くした。
春樹は新田の二の腕を力強くつかんだ。
「いつも僕に言ってるでしょ。謝るなって。あの人……高岡さんのこと、正直いって僕は好きじゃない。人柄は修一のほうが優秀だよ。僕は修一みたいになりたいと思ったことはあっても、あの人を目標にしたことなんてない。あの人だって、僕には呆れるって言ってる」
新田の目が不安そうに揺れた。春樹は新田をつかむ手に、さらに力を入れる。
「信じて。僕が好きなのは、修一だけ。修一がいないと生きていけない」
春樹は新田を抱きしめた。なだめるように肩や背中をさする。
新田の体の輪郭は、男らしいものになりかけていた。
常日頃から言葉を選んで話す新田が、春樹の前で不安をさらけ出した。
恥を忍んでも言わずにはいられないほどの感情を、持ってくれているのだ。
笙子が高岡の妹だと言うのはやめた。春樹さえ努力すれば、高岡が春樹の部屋に来ることもなくなる。
凶暴で狡猾な男の影がうろつく間は、春樹がしっかりするしかないのだ。
「怒った……よな」
まだ少し震える新田の声が、この恋の真剣さを告げていた。春樹は静かに首を横に振る。
「怖がって、迷って、混乱するのはいつも僕のほうだと思ってた。駄々ばかりこねて修一を困らせて、いつも心のどこかで修一に謝ってた。修一がこんなに思ってくれてるのに、怒る理由なんてどこにあるの?」
春樹はかすめるような口づけを、新田の頬にした。立ち上がると新田が春樹を見上げた。
「修一、待ってて。必ず追いつくから。勉強して、健康にも気をつけて。僕の憧れは先輩です。高岡さんじゃない」
新田がうなずいた。その顔色は少し赤かったが、ふたりは笑顔で鍵代わりの棒を外した。
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