Cufflinks
第一話・焔 第二章・2
脈に合わせるように頭が痛んだ。自分の呼吸の音と、小さな冷蔵庫のモーター音が床を這う。
高岡に電話をしてからどれくらい経ったのだろう。
受話器が外れたままではいけないような気がして、失敗を重ねながらも電話機に戻した。
自宅の受話器が外れたときは警告音がするだけだが、ここはホテルだ。
何がきっかけで従業員が来るかわからない。それだけが怖かった。
受話器を戻した際、帯を解いてみようとした。
ベッドの端に帯をこすりつけて、摩擦でずり上がるか下がるかしないかと思ったが、無駄だった。
数センチも動かない帯は一度吸った春樹の汗を放出して、心持ちきつくなった気がする。
ガーゼのような生地でできた紐状の帯でも、素肌に食い込めば痛い。手の指先が痺れてきていた。
生ぬるい涙が、鼻梁を伝ってカーペットに落ちた。
ベッドに入りたい。伊勢原の体臭には反吐が出そうだが、それでも体を隠したい。
高岡より先に従業員が入ってきても、床の上にいるよりは誤魔化せそうだ。
何度も入ろうとしているが、体が脳の命令に従わない。
帯を解こうとしたときに、体力のすべてを使ってしまった。
「高岡……さ、ん」
涙がとまらなくなった。子どものような泣き声が出てしまう。
えっ、えっ、と泣いている最中に、部屋のドアノブが動いた。
特徴的な帽子を被ったホテルの従業員が、春樹を見て緊張した面持ちになる。
高岡は身を滑らすようにして室内に入り、素早くドアをしめた。
春樹から視線を外す従業員に何かを手渡し、耳打ちをした。頭を下げている。
従業員が部屋から出ていった後、見慣れた双眸が近づいてきた。
拘束は苦もなく解けると思っていたが、高岡は縛られているところを手で押さえながら、少しずつしかゆるめない。
「ご、ごめん、なさい」
迷惑をかけられて高岡が怒ったのだと思った春樹は、泣きながら謝った。
「長時間縛られたら、急いで逃げる必要がない限り焦るな。腰から下を縛られたときは特に気をつけろ。間違っても急に起き上がったりするな」
「ど、ど……して」
「稀だが、血栓が重要な血管に飛んで事故につながることがある」
帯が解けた後も、高岡は春樹の体をさすった。ひたいにも触れ、熱があるか確認しているようだ。
春樹は唇を噛んだ。伊勢原と、こんな仕事をしなくてはならない自分が天秤の上で争っている。
頭の中の戦いで負けたのは春樹だった。
「ひ……く、くや、くや、し……」
高岡は静かに手を離し、汚された穴の周囲をティッシュで拭いた。
「どこが一番痛む。耐えられないほど痛いところはあるか」
「……肩と、手首。お腹、頭……。耐えられないのは……ないです」
「アルコールを飲まされたか」
「は……い……」
抱えられてユニットバスに入った。高岡が蛇口から水を出す。
「飲め」
水の入った歯磨き用のコップが顔の前にくる。鼻をつままれて無理に飲まされた。
むせてこぼしても、繰り返し水を流し込まれた。
「くるし……やめ、て」
「下を向け。口を大きくあけろ」
「ううッ! う、ああ!」
便座を上げた便器の前で、体を後ろから持たれる。口の中に高岡の指が奥深くまで入れられた。
胃の斜め下を手で押し上げられる。胃の内容物が逆流してくる感覚が強すぎて、高岡の指を噛んだ。
噛まれても指は抜かれず、再度胃が押される。
「口をあけろ。残らず出せ」
大量の水と吐しゃ物が高岡の手にかかる。ひととおり吐き終えると、また水を飲まされた。
新しく飲まされた分もすべて吐き、春樹は床にくずおれた。
水で濡らしたフェイスタオルを渡される。バスタブに湯を張る音がした。
「きょうの客はだれだ」
春樹の口はひらいたままだ。唇がわななく。
「罰したりしない。教えろ」
「い……伊勢原、さ、ま。あ、あの男、意識のないときに、口で……! コンドームも使わずに……あの男……!!」
高岡の手が春樹の口をふさいだ。
「大声を出すな。自分の仕事がどういうものかわかっただけの話だ」
春樹は高岡の手をどけようとした。離れない手を噛んだ。それでも高岡の手は離れなかった。
「冷静にできないならこの状態で部屋から出す。どうする」
春樹は目をとじた。涙が落ちる。高岡の手から歯を引いた。手が離れる。
相当強く噛んだのに、高岡は噛まれたところを見もしない。
この男は痛みを感じないのだろうか。
「少しぬるいが入れ。痛むところを揉んでおけ」
高岡に体を支えられて湯に入った。ぬるま湯は体のどこにも沁みなかった。手首と肩を集中的に揉む。
悔し泣きをしながらだったが、とがめられはしなかった。
「確証はないが、おそらくきょうのお前は代打要員だ」
「代打……?」
高岡が春樹を見たまま浴室の扉にもたれる。高岡の服は水と湯で濡れていた。
「お前を所有している社には、お前の他にも男娼がいる。特定の店に属している者もいれば、専属契約の者もいる。専属組の中で特に売れている者がいるが、伊勢原様はその男娼に入れ揚げている。好みの男娼を指名できずに立腹したのだろう」
「男娼って……いるんですか? 僕だけじゃないの?」
「男だけではない。女もいる。彼らはプロだ。週末だけのお前ひとりで接待できるはずもない」
春樹の拳が湯を打った。
「プロがいるなら、その人たちに任せておけばいいのに。ほかっとけばよかったんだ。酒癖が悪いって聞いてても、何もできなかった僕なんか」
春樹をこのホテルまで連れてきた社員は、伊勢原にアルコールを勧めるなと言っていた。
はっきり言われたにも関わらず、この始末だ。
涙を拭ってばかりで顔が痛い。春樹は湯に顔をつけた。
「お前はまだ何もできないと言ったはずだ。これからは気をつけるように」
高岡が浴室から出ようとした。春樹はバスタブの縁をつかみ、身を乗り出した。
「ど、どうやって? あのおと……伊勢原様は、すでに少し酔ってました。あっという間にベッドに突き飛ばされて、殴られてお酒を飲まされたんです。どうやって気をつけていいのかわかりません!」
安宿で、安物の帯で自由を奪われた。罵られ、暴力によって犯されて放置された。
酒臭い空気が占める空間で、染みだらけの天井と薄汚れたカーペットを見て過ごした。
この仕事を選んだのは自分でも、虐げられたままでいるのは嫌だった。
「体を洗ってベッドに来い」
そう言い残し、高岡は浴室の扉をしめた。
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