Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
佐伯はあの部屋で一泊すると言った。春樹は車窓を流れる灯りを見る。
春樹は今夜、携帯電話を持ち歩かなかった。客に会うときは持たないと決めたのだ。帰りの経路がわからないのに、隠すためのコインロッカーを探すのも億劫だ。財布も必要ない。靴の中に一万円がある。壬の服のポケットは、音がしないようにセロテープでまとめた小銭をきれいに隠した。
佐伯が呼んだハイヤーは、静かに春樹を自宅へと送り届けた。
体に熱を残したまま、マンションのドアをあける。だれもいない夜の部屋に入る。
寝室に入ったら十時を回っていた。ベッドに腰を下ろす。強い負担は感じなかったのに、体がベッドに沈んだ。
「終わった……」
終わりではない。これからだ。
これから最低でも高校を卒業するまで、人には言えない仕事をして食べていかなくてはならないのだ。
春樹は携帯電話をひらいた。横向きの姿勢で着信履歴を見る。一時間前に新田から電話があったようだ。
発信に該当するボタンを押せばいいだけだ。それだけで新田の声が聞ける。
(聞いてどうする。何て言うつもりだ)
一度電源ボタンを押し、画面を待ち受け状態に戻す。
未読メールがあると表示されていた。メールを読み出す。新田からだった。
「飯、うまかったか? いつか一緒に夕飯食おう。」
「めし……?」
自分が言った嘘を思い出した。今夜は高岡と食事をすると、新田には言ったのだ。
春樹は居住まいを正し、メールの返信を打った。
書いては消しの作業が続いたが、駄々をこねたことがあるのに無視はできない。
「高岡さんとじゃなければ、もっとおいしい。竹下さんにハンバーグ焼いてもらうから、うちで食べて。」
前半も後半も本心だった。迷わず送信する。
このメールを読んで、新田は笑ってくれるだろうか。いつか一緒に食卓を囲むとき、たくさん食べてくれるだろうか。
新田を思えば涙に襲われると思い、ハイヤーの中でも極力考えずにいた。
しかし、メールを打って新田の反応を想像し、近い未来のふたりを思い描くことは、つらいものではなかった。小さな希望を持つことができた。
「僕が単細胞だからかな」
春樹は携帯電話を伏せ、目をとじた。
このまま眠りたい。
体を洗いたいとは思わなかった。ホテルで軽く流しただけで充分だった。
服を吊るすためだけに立ち上がり、すぐにベッドに入る。灯りを消すのを忘れた。
灯りを消そうとベッドから出たときに、携帯電話が落ちた。
「充電しとかないと」
携帯電話を持ったとき、不必要なところに触れたらしい。画面が着信履歴になっている。
要らない履歴を消そう。竹下がこの電話を勝手に見ることはないが、万が一ということがある。新田にも詮索の機会を与えたくない。Tの履歴だけ消せばいい。
「うわ。四回もある」
履歴と共に高岡そのものも消したい。
消す作業を三回続けるうちに、高岡の携帯番号が頭にこびり付いてきた。覚えなくていいものほど頭に入る。
四回目の作業終了間際、指がとまった。
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