Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
「佐伯様! 堕ちるところまで堕ちるって、どういうことですか? ぼ、僕はどうなるの?」
「きみがどうなるか? 私にわかるはずないだろう」
嘲笑こそないが、佐伯の笑みは冷ややかだった。春樹の言葉が喉の奥へと引っ込む。
佐伯は窓辺のソファに座った。ひとり掛けで、オットマンがある。
四角いオットマンに佐伯が片足を乗せた。
「ここに来て私の足を舐めなさい」
春樹の血が凍った。逆鱗に触れたとしか思えない。
膝の震えを隠しもせずに、春樹はベッドから下りた。一糸まとわぬ姿で佐伯の足もとに正座をする。
春樹は目をとじ、佐伯のつま先に口を寄せた。
「そこまで」
「え?」
「客に同じことを二度言わせるのか?」
佐伯の瞳は人のものではなくなっていた。
瞳孔が小さくなり、反抗を許さない光が宿っている。
「今、どう思った? 正直に言いなさい」
「はい、あ、こわ、怖い、どうしよう、って」
「怖い? 本当に? ようやく私を怖いと?」
「は……い……」
胃が痛い。何がいけなかったのだろう。
もう一度しようと言ったこと? 自分はどうなるのかという、愚問を口にしたこと?
佐伯の足が下ろされた。手が静かに伸び、春樹の頭が撫でられる。
「それでいい。怖さを忘れてはいけない。きみは二度目をしないかと言ったが、それは相手を見て言うことだ。見極めがつかなければ、やめておきなさい。客との接触は少ないにこしたことはない」
佐伯は立ち上がり、自分が着ていたバスローブを春樹にかけた。人の温もりが春樹を包む。
クローゼットがひらく音がした。佐伯が浴衣を着る。クローゼットの棚に用意されていたものだ。
すっと締められた帯が、佐伯の凛とした一面を演出しているようだった。
「窓をあけて」
「はい」
指示に従い、窓のロックを外す。少しあけると、春樹のバスローブがはたはたと舞った。
「おや。困った子だね」
床に膝をついた佐伯が、春樹の前をとじた。頬を軽くつままれる。
「元気でいなさいと言ったはず。体には注意しなさい」
「は、はい」
佐伯に手を引かれてバルコニーに出た。髪をさらっていく風が心地良かった。
「きみの良いところは優しいところで、危ないところもまた同じだ」
佐伯がバルコニーの手すりに肘を乗せた。春樹は階下を見てみる。風にあおられそうで、春樹は佐伯の腰にしがみついた。佐伯が微笑み、春樹の肩を抱く。
「高岡くんの仕込みは少々変わっている。簡単に服従させる方法はいくらでもあるのに、彼は鎖を使いたがらない」
春樹は首をひねった。
狂犬の拷問部屋には、鎖も首輪も鞭もあった。これ見よがしに壁にかかっていたのだが。
鎖云々の前に、手を入れられた。あの所業には良い意味が見出せない。
今夜のセックスで痛みがなかったのも、佐伯が手馴れているからだ。
「眉間に筋が立っているよ。可愛い顔が台無しだ」
眉と眉の間を指で軽く弾かれる。佐伯の指先がそのまま目尻、頬、耳、首へと移動する。
いつの間にか腰に手が回され、薄い唇が頬をかすめた。
「初めての客がこんな男で、がっかりした?」
春樹は何度もかぶりを振った。両手を握りしめて、感じたことを伝える。
「や、焼きうどんも、お風呂に香りを足していただいたのも、水を飲ませてくださったのも、全部思っていないことでした。僕が考えなしのことを言っても、ちゃんとたしなめてくださいました。ただの男娼なんだから放っておいてもいいのに、佐伯様はお優しい方です。あの……あの、思い出にさせてください」
佐伯の体に抱きついた。目をつぶり、見た目より頑健な体躯を強く抱く。
こんなに強く抱いたら叱られるのではと思ったものの、春樹の腕が佐伯から離れようとしない。
「最初の客としての思い出ならいいが、これっきりの思い出ならお断りだ」
「あ、あの……うわっ!」
両腕で腰を抱えられ、春樹の体が浮いた。布製のスリッパがバルコニーの床に落ちる。
「ひゃ、やめ、こわい、怖いです!」
軽々と肩に担ぎ上げられた。これほどの腕力とは思わず、顔から血の気が引く。
佐伯は口笛を吹きながら片手で窓をしめる。ふたりで肌を合わせたベッドに、ふわりと着地させられた。
「きみの言うとおり。私は客で、きみは男娼だ。きみの体と引き換えに、私はきみの持ち主と関係先にささやかな利益をもたらす。きみはビジネスにおける接待道具だ」
佐伯の手の甲が春樹の頬をさすった。
「きみの心根が、放っておけなくさせた。帰京する楽しみがひとつ増えたよ」
「またお会いできると、いうことですか……?」
「そうだ」
同時に求め合って口づけをした。
佐伯の鋭い唇が、頑張れと言っているような気がした。
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