Cufflinks

第一話・焔 第二章・1


 十八階に位置する部屋だった。
 部屋に入ってすぐに一度抱きしめられたが、執拗なものではなかった。
「先に風呂に入っていなさい。この部屋の風呂はちょっとした美点だよ」
 春樹は下着に浴衣という姿で浴室に入った。この部屋の浴室は、須堂と過ごした部屋のようにガラス張りではない。大きな洗面台の後ろがシャワーブースになっている。洗面台で歯を磨き、シャワーで体を流す。洗面所とは違う方から花の香りがした。
 シャワーブースにはふたつの扉があった。洗面所とつながる扉ではない、曇りガラスの扉をあける。
 甘い香りが春樹を包んだ。
 開放感がある空間のほぼすべてを、大きな浴槽が占めている。
 浴槽の向こうは、これも巨大な窓だった。角部屋で高層階のためか眺望がいい。
 外から見えるわけもないだろうが、春樹は慌てて浴槽に身を沈めた。
 浴槽と窓の間には、アメニティグッズが入るカゴがある。カゴの横にはソープディッシュが並び、さらにその横にアロマオイルの小瓶があった。英語でローズと書かれた瓶だけが手前にずれている。
 生花も生けられているが、佐伯が湯にバラの香りを足したのだろう。
 春樹が服を脱ぐ間、佐伯は浴室に入っていた。湯を張り、こんな気遣いをしていたのだ。
 シャワーの音がした。曇りガラスに細身の影が映る。春樹は身を起こした。
 扉があき、何も身に付けない姿の佐伯が入ってきた。
「湯加減はどうかな」
「ちょうどいいです。すみません、何から何まで……」
 佐伯は微笑み、湯に体を入れた。春樹と向かい合わせになる。
「外を見てごらん」
 春樹は窓の外に目を移した。オフィス街を貫く道路に、たくさんの車が行き交っている。
 ライトの集合体である光の帯は、虹色に見えた。長い虹が尾を揺らして進んでいる。
「きれい……あっ」
 湯の中で佐伯に抱きかかえられた。胸や下半身を触られると思ったら、腹の上で両手を組まれただけだった。
「元気だったら、何でもできる」
「えっ」
「きみを買っておいて何をと思うだろう。きみには事情があって、ここでこうしている」
 春樹の体に緊張が走った。紳士に見えても客は客だ。高岡に似た眼光を持つ男だ。
 強張った体に気付いたのか、佐伯が組んだ手を解いた。春樹の両手首がそっとつかまれる。
「この夜景を手中にできる男になれだとか、そんな陳腐なことは言わない。ただ、元気でいなさい。私を含め、客を心の中で殺していい。怒りは外へ。自分を憎んではだめだよ」
「お客様を……殺す……?」
 佐伯が片手で春樹の手首をまとめた。高岡と同じ趣味があるのか、関節のどこを持てば自由がきかなくなるのか把握しているようだった。手首を持たれたまま体を反転させられる。
 気がつくと大きな窓を背に、佐伯と相対していた。
「目をとじなさい」
 春樹が目をとじた数秒後に、薄い唇が触れた。
 人間のものかと思うほど硬い。佐伯の唇は、二枚の刃物のようだった。
 唇と唇が触れたまま、さらに数秒が過ぎた。薄く目をあけようとしたとき、背中がくすぐられた。
「うう!」
 目をあけると唇が離れた。手首も自由になる。佐伯が片目を細めて笑った。
「きみに見とれて、ジェットバスのスイッチを入れ忘れた」
 背後を見る。細かな泡が大量に発生していた。春樹の背に当たるところに泡の噴出口があり、アメニティグッズのカゴから少し離れたところに、ジェット噴流バス用らしきスイッチ盤があった。
「び、びっくりしました」
「びっくりした顔、可愛いね。でも恥じらう顔は」
 佐伯にあごをとられる。唇を指で撫でられた。
「もっと可愛い」
 刃物に似た唇と、薄い舌の感触がした。
 唇から離れた指が、頬から下へと移動する。佐伯の左手は春樹の肩を抱いていた。右手が体の線をなぞる。
 胸のしこりも、下半身の敏感な部分も触られていないのに、春樹の頭には薄いもやがかかり始めた。焔が近くまで来ている。
「ん……う、だ、め」
 客に否定の言葉を使ってしまった。息をつめて佐伯を見る。
 拒絶ではないと伝わっているのか、佐伯の顔には微笑みがあった。
「もう風呂はいい?」
「湯あたりしそう、です。いい香りで素敵なお風呂なのに、ごめんなさい」
「実は私も長湯は苦手だ。おいで」
 もう一度、唇だけのキスをされる。
 佐伯に支えられて浴槽をまたいだときには、見えない炎の舌先が足もとまで迫っていた。


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