Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
「佐伯様とおっしゃる方だよ。優しい方だから安心しなさい。お任せして、身をゆだねればいい。きみのことは下の名前と外見しかお伝えしていない。にこにこしていればいいからね」
社の車を運転した四十がらみの男は、春樹を車から降ろす際にそう言った。シートベルトを外すこともしなかった。春樹を降ろすとすぐに出口に向かっていった。
ホテルのロビーのソファで、春樹は膝を何度かさすった。震えが続いている。
春樹の横のソファに男が座った。垢抜けている。高岡より少し背が低い。四十代半ばだろうか。
ジャコウのような香りがする。
「ハルキくん、かな?」
「は、はい」
「はじめまして。佐伯です。お腹は減ってない?」
「あの……あまり……緊張して……」
はは、と笑った佐伯は、どこかで見た感じがした。
眼光が強い。射貫くような目つきが高岡に似ていた。似た人種なのだろうか。狂犬の拷問部屋が頭をかすめる。
「正直でいいね。騙されたと思って、おいで。若い子は食べないとだめだよ」
相手は客だ。逆らう理由がない。
春樹は佐伯の後について立ち上がった。
ロビーを少し奥に入ると、壁一面が巨大な窓ガラスになっている空間に行き当たる。
隅に置かれたグランドピアノは、男性ピアニストによって奏でられていた。
ロビーの床面から二段下がった空間の、窓側の席に案内される。「いつものをお願いします」と言った佐伯に、案内係は深々と頭を下げた。
「ちょっと変わったものが出てくるけど、笑わないでくれると嬉しいな」
「は……い」
高岡と食べた骨付き肉を思い出した。周りを見ても、コーヒーやジュース、ソフトカクテル、ケーキ、せいぜいサンドイッチくらいしか出されていない。
食べるのに困るものが出てこないようにと祈っていたら、佐伯の視線を感じた。
「その服、だれが見立てたの? よく似合っている」
「はい、あの、みず……セレクトショップの店員さんです」
「そう。シャツがいいね。淡いけれどピンクだよね。ピンクは好き?」
「あまり……。着たことありませんでした。試着するまで、恥ずかしかったです」
「ピンクは意外と合う人が多いんだよ。良い店を知っているんだね」
壬(みずのえ)の店で高岡が購入した服をきっかけに、会話が弾み始めた。
春樹が相手をくつろがせるべきなのだろうが、とてもそこまで気が回らない。
佐伯は話題が豊富でユーモア好きだった。細身だが、頼りない雰囲気ではない。服に話題を振るだけあり、着ているものも洗練されていた。仕立物らしきスーツの生地は、表面にかすかな光沢がある。
ホテルの照明によく映え、初めて会う人への礼節も重んじているようだった。
一重で切れ長の目は少し怖いが、自己を律する人物に思えた。
「お待たせいたしました」
給仕人が運んできたものは、焼きうどんだった。
このホテルはオフィス街に近い。大きな窓の向こうには、気ままに灯りをともすビルが立ち並ぶ。直に七時を回ろうとしている空は薄闇に染まり、ピアノの音が耳に優しい。
大きな革張りのひとり掛けソファに、丸いガラス板のテーブル。
その上にある焼きうどんは、湯気に春樹への心遣いを乗せていた。
「温かいうちに召し上がれ」
佐伯が適量のうどんを取り分けてくれた。だしの味と香ばしい醤油の香りに、体がほっと息をついた。
「おいしい。おいしいです」
「よかった。このホテルは一度建て替えたけど、古くてね。祖父の代から利用している。気が置けないところは昔から変わらない。東京に帰ると、用もないのにこれを食べにくるんだよ」
「佐伯様は、東京にお住まいでは……」
「海外と日本を行ったり来たり。貧乏暇なしだよ」
佐伯は屈託なく笑った。笑顔を絶やさない佐伯に、春樹の頬の強張りが徐々に解けてくる。
部屋へ向かう途中で佐伯に軽く手をとられる。エレベーターの中で、春樹は佐伯と腕を組んだ。佐伯が遊び慣れているのは春樹にもわかったが、不思議と嫌だとは思わなかった。
上に向かって動く閉鎖された空間に、佐伯とふたりきりになる。胸の奥が少し熱くなった。
「焼きうどん、ありがとうございます。ホテルもほとんど入らないし、最初のお客様だからすごく緊張してました。食べ慣れた温かいものを出していただいて、嬉しいです。お気持ちが……とても嬉しいです」
春樹の頭を佐伯が撫でた。弾むような撫で方で、性的な意味は感じられない。
「いい子だね。笑ってくれると私も嬉しいし、素直な気性が実にいい」
佐伯に寄り添うように歩き、ふたり並んで部屋に入った。
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