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第一話・焔 第二章・1
「ごめんね」
放っておくという選択肢が頭をよぎったが、高岡だったら後が厄介だ。
画面をスクロールするのは「T」の文字だった。春樹の顔を熱くしていた血が、怒りのものに変わる。
「ごめん、ほんとにごめん! すぐ終わるから」
春樹は寝室に入った。扉からできるだけ離れて通話ボタンを押す。
「出るのが遅い」
聞きたくない声がした。この狂犬はどうしてこうも最悪のタイミングで電話をしてくるのか。
春樹は不機嫌さが表れないよう、慎重に言葉を発した。
「ごめんなさい。マナーモードにしてたんです」
「ご機嫌斜めだな、仔犬ちゃん。何をしていた?」
とっさの努力ではカバーしきれないほど、春樹の不機嫌は大きかったらしい。高岡の声音には嘲笑が含まれていた。
「修一と新聞を読んでました」
「新田が自宅に来ているのか」
「そうです」
だから早く切れ、と念じていると、廊下の外から足音がした。
扉を押さえようとしたら、足音はキッチンのあたりでとまった。コップを置きにきてくれたのかもしれない。
「今夜、客がつく」
「……え?」
「夕方には社の車が迎えにいく。身支度をしておくように」
高岡の声があまりに静かで、言われていることの意味がわからない。
「返事をしろ」
「あ…………はい」
膝が震え始めた。寒くはないのに歯の根が合わなくなり、呼吸の音が変化する。
悟られたら笑われる。春樹は息をとめて足を踏ん張った。
「新田とまだ寝ていないなら、今しかないぞ」
電話が切られた。春樹は携帯電話を握りしめる。
唇に触れる。新田の熱が残っている。体の奥にある芯は、新田に火がつけられるのを待っていた。
「春樹? 大丈夫か?」
扉の外から新田の声がした。ノックもされる。
新田に抱きつき、思うまま求め合う姿がちらつく。
何かに追い立てられるような性急なシルエットは、二匹の獣のようで醜悪だった。
春樹は強くかぶりを振った。膝を手で叩く。
(売春が始まるからって、急にはできない。修一はそんな存在じゃない)
客との予定は相手の都合で決められても、新田との関係は違う。
もっとゆっくり、着実に築いていくべきものなのだ。
手をつないで伸びるシバザクラのように。
「はる……」
「ごめん! 高岡さんからだった」
扉をあけて、携帯電話を振ってみせた。春樹は頬を膨らませてリビングに戻った。
「やれ何してたとか、勉強しろとか。ほんとうるさいんだ。新聞読んでたって言っても、褒める言葉もないんだから。あ、コップ置いてくれてありがと」
新田に言葉を挟ませないよう、大きめの声で話す。新聞をバサバサとたたみ、ソファに腰かけた。
「電話してくる度にお説教だもん。あの人にいいとこがあるとしたら、たまにご飯おごってくれるとこだけ。今夜もおごってやる、夕方に迎えにいってやる、だって。恩着せがましいったらないよ」
新田は二、三度まばたきをした。春樹の隣に腰を落ち着ける。うつむいて、小さく笑った。
「そっか。俺、あしたから親父の実家に行くんだ。きょうは夜まで一緒にいられると思ってた」
「ごめん……! ごめんね修一」
春樹は新田の腕に触れた。春樹の手に新田の手が重なる。
「気にしなくていい。学校が始まれば、毎日会えるから」
「修一……」
新田と過ごすために体を売る。新田との時間を一時的に奪われても、退学の恐怖から逃れるにはこれしかない。
『新田とまだ寝ていないなら、今しかないぞ』
だめだ。今は無理だ。
新田の体温が残った体を客にくれてやるなど、考えることもできない。
肉体と精神を切り離すスイッチは、持ち合わせていない。
新田の視線が春樹から離れた。聡明な瞳が見ている先に、母の遺影があった。
「母だよ。僕を産んだときに死んだ」
新田の目が春樹の顔に戻る。春樹は言葉を選びながら、新田が自分を殺して待ってくれた事実を伝えた。
「出産時の事故としか聞いてない。僕、父さんにも会ったことないんだ。母さんはその……父さんの愛人だったから」
初めて愛人と言った。中学のころに母は愛人だったと知っても、その言葉を口にする気にはなれなかった。母を汚すような気がしたからだ。
「変な感じなんだ。父さんはこの世にいるし、母さんの遺影もある。それなのに、僕はふたりの子どもって感じがしない。小さいころ、UFOを探して空ばっかり見てた。僕は何ていうか、地球人じゃない気がして。空を見てたからよく転んだよ。転ぶのは今もだけど」
平均以下の運動神経の持ち主である春樹は、十六歳になった今でもたまに転ぶ。先日も、新田から逃げる途中で転んだ。
新田も春樹の転ぶ姿を思い出したのか、ふたり同時に笑った。
肩を抱き寄せられた。春樹は新田の胴を抱えるように手を回す。
出会って間もないころに比べると、骨張った感じが強い。
「修一、やっぱり痩せたね。ちゃんと食べてね。僕も食べるから」
「俺は大丈夫だ。そんな心配するな」
「嫌だ。する。だって……あい、愛してる、から」
視線でつながった。ごく自然に唇が触れ合う。
これでいい。
急き立てられてするセックスなどより、愛してるの五文字で伝わるものを大切にしたい。
「話してくれてありがとう、春樹」
うなずく春樹の唇に、再度あたたかい感触がした。
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