Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
翌々日は朝から曇天だった。
春樹はクローゼットの鏡の前で、壬が選んだドレスシャツの襟を正した。
きのう、竹下が来てくれた。春樹の好きな惣菜をたくさん作り、このシャツを手洗いしてくれた。
一昨日の夜にシャツをクリーニングに出そうとしたが、近所の店は閉まっていた。
結局放置してしまったシャツを、竹下は手際よく洗い、アイロン仕上げをしてくれたのだ。
買ったときの状態に戻ったシャツの上に、壬のジャケットを羽織る。
鏡に映る自分に、お前は男娼なのだと言い聞かせる。
学習机の上に置いた携帯電話をひらく。先日途中で終わった作業を思い出した。
「T」の着信履歴を消し終わっていない。
忌々しい番号は、皮肉なことに続けて目にするうちに覚えてしまった。
「春樹くん。いいかな」
「ごめんなさい、すぐ行きます」
春樹は携帯電話を置き、玄関で待つ社の者に一礼した。
空には雲が居座っていて、気温もきのうより低い。
サイドミラーに映った自分の顔色は、きょうの空に似て冴えないものだった。
渋谷駅から遠くないホテルだった。
駐車場にとまった車内で、四十がらみの社員が春樹を振り向いた。
「きょうのお客様は、伊勢原(いせはら)様とおっしゃるお方だ。明るいお方で、こういう遊びにも慣れていらっしゃる。ただ、アルコールが入ると人が変わるところがあるので、勧めないように。佐伯様に可愛がられたときと同じようにしていればいいからね」
返事と礼だけをした春樹は、足早にホテルに入った。やはりあの社員は好きになれない。
(可愛がられただと? ふざけるな)
あらかじめ告げられていた部屋に向かう。ノックをすると、少しの間をおいて扉がひらいた。
わずかだがビールのような臭いがする。嫌な予感がした。
部屋に入ると、嫌な予感は強くなった。
この部屋は狭い。ベッドはダブルベッドのようだが、テレビはブラウン管のものだ。ソファもなかった。
シティホテル以外はあまり使わないんだけどね、と、社員も言っていた。
扉をあけた男、伊勢原は太っていた。三十代後半か、高岡と同じくらいかもしれない。
腹が出ていて、脂ぎった顔が少し赤い。小さなライティングデスクの上にビールの缶がある。
伊勢原はベッドが揺れるほどの勢いで腰を下ろすと、春樹に向かって怒鳴るように言った。
「ちっこいガキだな! 脱いでみろ!」
「は、はい。あの、お酒を……?」
「ごちゃごちゃ言わずに脱げ!」
「はいっ」
ビールのためか、何か嫌なことがあったのか、伊勢原は不機嫌そうだった。
春樹は急いで服を脱いだ。
客の前で脱ぐことにどういう意味があるのか。
自身の安全しか考えていない今の春樹にとって、想像することは不可能だった。
「色っぽくないな」
ボクサーパンツ一枚になった春樹は、言葉もなくもじもじと立った。
伊勢原の視線が上から下へ、また上へと無遠慮に動く。伊勢原は春樹を見たまま缶ビールをあおった。
中身がないのか、舌打ちをして缶を握りつぶした。春樹の体が固まる。
伊勢原が立ち上がった。分厚い手の平で春樹を押しのけ、冷蔵庫をあける。
手にしたものは缶ビールだった。立ったまま飲み始める。
春樹は脱いだ服をクローゼットに放り込んだ。ハンガーにかける余裕などない。
これ以上アルコールを飲ませてはいけないと判断した。
「あ、あの……お酒は後で……」
小声で意見する春樹を伊勢原が睨んだ。
丸く大きな目は白目の部分が多く、仁王像を思わせる迫力だった。
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