Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
電話が鳴っている。
「つめたっ」
体を起こした拍子に濡れタオルが落ちた。手に触れたタオルが冷たい。熱は下がったようだ。
「電話に出ないと……」
携帯電話は枕もとに置かれていた。振動もしていないし、音もしていない。
鳴っているのはリビングの電話だ。
廊下に出てリビングに入る。どの部屋の電気も煌々とつけられていた。
そのためか熱が下がったためか、春樹は食器棚の横にある電話台まで、つまずくことなく歩いた。受話器を取る。
「春樹くん。体調はどうだ?」
聞いたことのある声だった。きのうの夕方、春樹を迎えにきた父の社の男だ。
「もう大丈夫です」
「高岡さんから伺ってね。初めてのときは、不調を訴える子もいる。怖がることはないよ。ひどいようなら受診しなさい。遠慮は無用だ。よく頑張ったね」
「あ……はい、どうも」
春樹はこの男を好きになれない予感がした。
会ったのはきのうが初めてではない。春樹の十六歳の誕生日に、この部屋まで春樹を迎えにきた男のひとりだった。
口調も穏やかで威圧的ではないのだが、言葉が心に入ってこない。
「きみはいい子だと、佐伯様もおっしゃっていた。あの方はお優しいが評価は辛口な方だ。お気に召していただけたようで、社としても鼻が高い。そこでね、あさっての昼に別のお客様の接待をしてほしい。できそうかな?」
「はい……」
「ありがとう、助かるよ。あさっての正午、きのうと同じように僕が迎えにいくからね。ああそれと。連休明けから新聞が配達されるように手配したよ」
「新聞……? 頼みましたっけ」
「高岡さんからの提案だ」
男が電話を切ってから春樹も受話器を置いた。
電話機の液晶画面には、夜の七時過ぎの時刻が表示されていた。外が少し暗い。午前中から今まで、ずっと眠っていたことになる。
佐伯は悪い客ではないと思う。昨夜は普段どおり寝付けたし、今朝は校庭の花の世話と掃除ができるほどだった。
売春────体を売ること。自分が思うよりも、打ちのめされる行為なのだ。
春樹はダイニングテーブル用の椅子に腰を下ろした。
「え……何だよこれ」
ダイニングテーブルの上に、近所のコンビニの袋がある。電話に出ることしか頭になかったので、見落としていたようだ。中を見る。
インスタントの味噌汁とレトルトパックの粥、使い捨ての解熱用冷却シートが入っていた。チューブ入りのハンドクリームもある。レシートの裏に何か書かれているようだ。見覚えのない字だった。癖がなく読みやすい。
「冷蔵庫の中も見ろ。家事をするのはいいが手を荒らすな。」
高岡が書いたのだろう。春樹はレシートを握ってくしゃくしゃにした。
冷蔵庫の中にはコンビニのものだが、玉子焼きが入っていた。筑前煮と青菜のお浸しもある。
炊飯器も見てみた。白米が炊いてあった。
「何なんだよあいつは! 勝手なことばっかりしやがって、いつもいつも!」
ハンドクリームのチューブをつかんで壁に投げようとした。振り上げた手を下ろす。
思い出した。
高岡の車から降りたとき、強いめまいがした。足もとがぐらつき、仰向けに倒れた。
コンクリートの床に頭を打ちつける寸前で、人の腕のようなものが背中の下に入った。
高岡の左腕に背中をすくわれ、頭を打たずにすんだ。高岡は床と春樹の間に滑り込み、衝撃から守ったのだ。
春樹の体には、かすり傷ひとつない。高岡の左手に傷が残った。
(だから何だ。これがあいつの手だ。飴と鞭で、懐くように仕向けてるだけだ)
功名心だと言ったではないか。
あいつが気にしているのは、自分の戦績だけだ。
商品が自分の目の前で頭を打てば言い訳に苦しむ。愛情などではない。断じて。
解熱用のシートを一枚取り出す。熱は下がっていたが、ひたいにシートを貼ってみた。
高岡の言動に動揺する心など、冷えてしまえばいいと思った。
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