Cufflinks
第一話・焔 第二章・1
消毒薬の臭いがする。
まばたきをした。まぶたが重い。頭が痛い。腹も少し痛い。
「あたま、痛い……」
視界がさえぎられた。濡れたタオルがひたいに乗せられる。
タオルを乗せた手に絆創膏が貼られている。消毒薬の臭いは、この手からしているようだった。
「頭は割れるほど痛むか?」
「割れるほどじゃない……です」
「本当だろうな。自分のことだぞ。後で急変しても救急車を呼べるのか」
ワイシャツの袖を肘までまくった高岡が、春樹を見下ろしていた。
高岡の左手の甲に貼られた絆創膏から、すりむいたような傷がはみ出している。
「……血が出てる」
春樹の視線を受け、高岡が自分の左手を見た。すぐに春樹に視線を戻す。
「まずは自分の心配をしろ。頭痛は大丈夫なのか。他に痛いところはあるか」
「大丈夫です。お腹が少し……あの、何があったんですか」
「仔犬ちゃんが引っくり返った」
「あ……の、そのケガは……」
「仔犬ちゃんの下敷きになった」
「うそ」
高岡の眼光が春樹を射貫いた。春樹は毛布をあごまで引き上げた。
「最初の客をとった後、体調を崩す仔犬は少なくない。発熱、嘔吐、下痢、外傷以外の痛みなどだ。昨夜だが、夕飯は食べたのか」
「う、あの……食べてません」
「何もか」
「さ……お客様から焼きうどんをごちそうになりました。一人前を、半分ずつです」
「何も食べないよりはましだが、吐き気や腹痛がなければ無理をしてでも食べろ。昨夜食べたものがその程度なら、朝からハンバーガーなどがっつくな。油が負担になる。体が資本だ。考えて食べろ」
「……はい」
食べろと言われても、惣菜はもうない。味噌汁も作れない。何も買っていない。
「竹下さん……」
涙は出ないが、情けない声が出た。高岡がうんざりしたような顔を向ける。
いつこみあげてもいいように、春樹はタオルを目もとまで下ろした。
「おかず、もうないんです。白いご飯もなくなりました。連休のときは多めに用意してもらうんですけど、弟さんの具合が悪くなったらしくて、作り足してもらう時間がなかったんです。自分で味噌汁を作ろうとしたけど、できませんでした」
高岡から溜め息が聞こえた。寝室から出ていく。ほどなくして、高岡がまた寝室に入ってきた。
春樹の左手がとられ、長方形のものが握らされた。リビングにある電話の子機だった。
「留守録を聞いてみろ」
春樹はタオルをひたいに戻し、留守番電話の録音を再生した。
「春樹さん、竹下です。あす、お伺いします。ご不便かけてごめんなさい」
吹き込むのに緊張したのだろう、少し硬質な声だった。硬質だが、竹下の声だった。
春樹は子機を胸に抱いた。
「来てくれるんだ……よかった……」
竹下の声を聞いたら、睡魔に招かれた。まぶたがぴったりくっついた。
高岡がいるのはわかっていたが、眠ろうとする体はコントロールできない。
子機が取り上げられた。タオルも取り去られる。
ベッド脇にあるミニキャビネットのあたりから水音がした。よく冷えたタオルがひたいに乗る。
毛布が肩までかけられた。熱の有無を確かめるように、頬に手が触れる。
寝室の扉がしまる音がした。消毒薬の臭いが残った。
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