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第一話・焔 第二章・1


 森本が途中駅で下車し、春樹も自宅の最寄り駅で降りた。
 教科書を取りにきたという森本の言葉を思い出し、春樹は不安になっていた。
 春樹は塾に通ったことがない。高校受験のときは、父が頼んだ家庭教師にみてもらった。
 T大生で優秀な男性だったが、人を見下すところがあって好きになれなかった。
 考え方も理解できないまま詰め込むだけ詰め込んで、今の高校に合格したのだ。
「仔犬ちゃん。乗っていけ」
 春樹の後ろから、道を踏み外した元T大生の声がした。
 ここで拒否すれば平手打ちだ。春樹は助手席に乗り込んだ。
「電車に負けずに来たんですね。相当飛ばしたんですか」
「仔犬ちゃんが乗ったのは各駅停車の列車で、俺は抜け道を知っている」
「あの女の人、放っておいていいんですか。せっかくナンパしたのに」
 一瞬の間の後、高岡が笑った。
「ナンパされたのは俺のほうだ。信じるかどうかはお前の勝手だが」
 よくもそんな嘘がつける。
 まだ若い清楚な女性が、眼光のきついラフなスーツ姿の男に声をかけるわけがない。
 高岡の見た目が多少良くても、本能で危険を察知するはずだ。
「ところで、シバザクラは咲いたか」
「えっ、あ、はい。満開です」
「臆病な心というらしいな。シバザクラの花言葉は」
 春樹は高岡を見た。調べたのか、こいつ。
「仔犬ちゃんに必要な心だ。弱いオツムならなおのこと」
 高岡の禅問答が始まった。春樹の頭が弱いなら単刀直入に伝えればいいのだ。考えろというなら、早くそう言え。
 しばらく待ったが高岡から「考えろ」の指示はなかった。
 春樹はシートに深く座り、前だけを見た。どうせこのまま春樹の自宅マンションに行き、セックスの授業だ。
 早く終わらせて、早く帰ってもらいたい。
「元気がないな。食べっぷりがいいから安心したが」

  安心────────?

 高岡を見ることができない。
 聞き違いだ。こいつはナンパに成功して、浮かれているんだ。機嫌がいいだけだ。
 何度か経験した、胸と腹の間の痛みが始まる。
 下を向く前に視界がぼやけ、塩辛い液体が唇とあごを伝って落ちた。
「もう……やだ」
 左隣から溜め息は聞こえない。舌打ちもない。
 初めて抱かれた夜の翌朝と同じ、手の甲と指で顔を拭われるだけだった。
「なんでいつも、こんな……またこんがらがる」
 車がとまった。泣いていたので気付かなかったが、春樹のマンションに着いていた。
「他人から関心を寄せられて心が動くのは当然のことだ。相手が俺であっても」
 高岡はシートベルトを外し、下りていた窓をさらに下ろした。
「お前は愛情と叱責に触れる機会が少なかった。慣れないことに心が揺れる。それだけのことだ」
「愛情……?」
 涙はとまったが、まだ高岡を直視できない。言葉だけが駆け出していく。
「高岡さん、僕に愛情があるんですか? 商品だから気になるだけじゃないんですか? 本当は僕を躾ける仕事、断りたかったんじゃないの? どうして引き受けたんですか?」
 功名心と言え。
 それで決着がつく。こんがらがらずにすむ。
「最後の質問にだけ答える。功名心だ」
 春樹の口から安堵の息が漏れた。
 安堵したはずなのに、春樹の頬を涙が伝う。涙の道ができているのかもしれない。
「俺は自分の戦績を汚さない。勝算のないことは怖くてできない。納得したか」
「しました」
 話は単純だ。シバザクラの花言葉が臆病な心だと聞き、春樹は少し気落ちした。
 可憐で小さな花に、しぶとさを見出していたからだ。シバザクラのようでありたい。あまり構われなくても陣地を広げる、小さいけれど強い花に未来を重ねた。春樹の未来と、春樹と新田の行方を。
 臆病という言葉に良いイメージはない。シバザクラに見ていた幻影を壊された気がして、表情も暗くなった。
 それを高岡が勘違いしたのだ。早とちりした狂犬が、初めて客と寝た商品の元気がないと思ったに過ぎない。
 春樹はシートベルトを外した。すっかり乾いた頬が熱い。泣いたせいか頭も痛む。
「春樹。待て」
 駐車場に足を下ろした。
 コンクリートの床のはずなのに、雲か綿のようだ。
「春樹!」
 視界の端に、スーツの影のようなものが見えた。
 ラフなスーツだ。職業不詳の男が着る服。
 こんな服装をした男に、声をかけてはいけない。危ないですよ、この男は。狂犬なのです。
「まったく……この、仔犬ちゃんは」
 駐車場の天井が回転している。
 高岡の声がとても近くでしたが、回転する渦に消えていった。


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