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第一話・焔 第二章・1


 土曜の昼食は寂しい内容だった。
 家政婦の竹下が連休に入ったため、春樹は作り置いてもらった惣菜を食べきってしまったのだ。
 既製品のふりかけで白米を食べ終わる。炊かれた飯もこれで最後だ。食器を片付けるためにシンクに立つ。
 シンクの中には、派手に吹きこぼれた味噌汁の成れの果てが転がっていた。
 高岡にできるなら自分にもできるだろうと軽く考えて味噌汁作りに挑戦したのだが、結果は惨敗だった。だしのとり方などわからない。顆粒状のだしの素を探しているうちに、小さな鍋にたっぷりの味噌入り水が沸騰してあふれたのだ。
 家事の大部分を家政婦任せにしている春樹に、味噌は後から入れるものだと知る由もなかった。
「インスタントの味噌汁、買っておこう」
 無駄に増えた洗い物を片付け、リビングのソファに腰を下ろす。ソファの上に置いておいた携帯電話をひらく。
 今の待ち受け画面は、白い小さな花で飾られていた。春樹が植えて開花したシバザクラだ。
 一昨日登校したときには、まだ七部咲きだった。きのう見たら満開になっていた。
 陽気も手伝って満開になったんだな、と言った新田と、そっと手をつないだ。
 携帯電話をとじる。きょうも快晴で、春樹が座るソファにも大量の陽光が射し込んでくる。
 心地良さに負けて横になろうとしたとき、肘に新聞紙が当たった。新田が持ってきてくれた新聞だ。高岡がつけた印の意味がわからずに一度は放置した。
 高岡の名など思い出したくもない。三日前、高岡に手を入れられた。後ろの穴から体内に。
 苦痛と恐怖から解放された後、春樹の中で妙な気力が生まれつつあった。
 次に高岡に会うまでに、少しは新聞につけた印を理解してみせる。
 あんなことをされてやる気が出るのは本当におかしいと思うが、自分を憐れむだけでは先に進めない。
「狂犬め。みてろよ」
 昨夜、寝る直前まで格闘していた全国紙の一面を見る。二面、三面と読み進めるが、昨夜と何も変わらない。テレビ欄まで目を通しても同じ結果だった。さすがにうな垂れる。
(だめだ。ここであきらめちゃ何も変わらない)
 もう一度一面をと新聞を裏返す。玄関の呼び鈴が鳴った。
「新田です」
 インターフォン越しに、溌剌とした声が響いた。
「修一! どうしたの? 上がって!」
 早くと新田の腕を引く春樹に、新田が優しく微笑みかけた。
「特に用はないけど、会いたかったから」
 照れた春樹は、そそくさと冷蔵庫からオレンジジュースを出した。
 ソファに座った新田が新聞を見る。
「新聞、読んでくれてるんだ」
 春樹は新田が見ている新聞の脇に、オレンジジュースの入ったコップを置いた。
「この丸い印は?」
 新田が一面につけられた印を指差す。
 社会的に重要なニュースの見出し部分と、下部にあるコラム記事、そして何故か日付に印がある。
「きょ……高岡さんがつけたんだよ。最低限ここを読めって。どうして印のとこが必要なのか考えて読むように言われてるんだけど、さっぱりわかんない」
 新田の前で高岡の名を口にするだけで、口の中が苦くなる。春樹はオレンジジュースを一気に飲んだ。
「漫画にも印があるし、お菓子の新商品情報にもあるし、ふざけてるんじゃないのかな」
 事実、高岡の考えは理解不能だった。四コマ漫画に印があるのは一箇所だけであったが、ひとコマ漫画には必ずといっていいほど印がつけてある。何より、日付につけた理由がわからない。
「この日と同じ日付か、近い日付の経済紙、あるか?」
「あるけど……いいよ修一。あんなへそ曲がりがつけた印なんて、きっと意味なんてないんだ」
「へそ曲がりって、親戚の人だろ」
 新田が苦笑しながら経済紙を受け取る。全国紙と同じ日付のものだった。二紙を見比べて、全国紙のひとコマ漫画を春樹に見せた。
「親父が言ってたんだけど、ひとコマ漫画って、そのとき話題になってることを知らないと意味が分からないんだってさ。政治について描かれることが多いけど、政治欄なんて俺もあまり読まない。漫画を見て意味が知りたくなったら記事を読めって言われたことがある。一面の下の方のコラムは、クラスで使う補習用プリントでも取り上げることが多い。質の良いコラムは本質を考えるきっかけになるって担任は言ってる。あとは……これかな」
 全国紙につけられた二重丸の印と、経済紙の二重丸の印とを並べる。二重丸のついた記事は関連していると高岡が言っていた。
「二重丸同士って、関係ある記事でいいのか?」
「うん、そう。どうしてわかるの?」
「同じ商品が載ってる。新商品情報のところ」
「ほんとだ……」
 怒りにまかせて読んでいたためか、新発売されるスナック菓子が同じものだと気付かなかった。
「他の新商品情報、見てもいいか? あと、株式」
 散乱していた新聞と、まだ紙袋の中にある新聞をすべて新田に渡す。
 春樹のために読解まで手伝ってくれる。春樹は新田の利発な瞳をうっとりと見つめた。
「高岡さんって自営業なんだよな? 取引先なのかわからないけど、印がついてる新商品の販売元の親会社、全部一緒だな」
「そうなの? どこ?」
 新田が先に教えてくれたスナック菓子の記事と、株式欄とを指し示した。
 株式欄の中に、印ではなく線が引かれているところがある。
 社名は略されているが、春樹はぎくりとした。
 父が勤める会社だったからだ。
「大きなとこだよな。こんな会社と取引できるなんてすごいな」
「ど、どうなんだろ。あの人、仕事のことは言わないし。でも修一すごいね。僕は何回読んでも全然わからなかった」
「そんなことない。日付につけたのはわからないし、ほとんど親父や担任の受け売りだから」
 父親がそばにいると、新聞の読み方も教わるものなのだろうか。
 そう言ってしまえば新田は傷つくに違いない。春樹が家族と住んでいないと知っても、新田は詮索をしなかった。過去の級友や今の級友の中には、ひとり暮らしなのか、とか、何故親戚と同居しないのか、と言ってくる者もいた。
 マンションの一室にひとりで住む春樹をうらやむ者もいる。
 詮索好きでなく、ましてや、うらやましいなどと言わない新田だから、どんどん惹かれていったのだ。
「僕の家族のこと根掘り葉掘り訊かないでいてくれて、ありがとう」
 春樹は言い、新田を見た。いつから春樹を見ていたのか、新田と真正面で目が合った。
 新田の手が春樹の髪に伸びる。すくように撫でられ、そのまま頭を引き寄せられた。新田の胸に春樹の頬が当たる。
「僕から言うまで待ってくれる修一のつらさ……考えもしなかった」
「今は考えてるじゃないか。そんなことより、元気でいてくれることのほうがずっと嬉しい」
「修……い、ち……」
 頭を持ち上げられてのキスは、陽射しと同じであたたかかった。
 オレンジジュースの味と新田の体温に、春樹の頬が熱くなる。
「ん、く……っ」
 上唇の裏側を新田の舌が這う。電気が発生する箇所を舐められて、体から力が抜けた。
 春樹がソファに押し倒されるのに、時間はかからなかった。
「春樹、好きだ。愛してる」
「愛してる……?」
「愛してる。すごく」
 新田の頬も紅潮していた。口にするには勇気がいる「愛してる」を、また聞くことができた。
 浅いキスを重ねながら、新田が春樹のシャツのボタンをひとつ、ふたつと外していく。
 春樹も新田のパーカータイプのトレーナーに手を入れた。Tシャツもまくり上げ、腰のあたりに手を這わせる。
 重なる唇から息をのむ音が漏れ、新田の瞳が恥じらうように泳いだ。
「修一……大好き、修」
 ソファが振動した。
 マナーモードにしたままの携帯電話が着信を告げていた。


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