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第一話・焔 第一章・4


「その可愛いのは男か? お前、ホモ野郎か!」
 春樹が声の主を見ようとしたが、高岡に髪をつかまれた。そのまま高岡の方に顔を向けさせられる。春樹の目の端に、アルファの同乗者が携帯電話を構える姿が映った。春樹か高岡を撮影する気なのかもしれない。
「目をとじろ」
 嘘だろ、と思う間もなかった。
 笑った形の高岡の唇が、当たり前のように春樹の唇に重なる。
 同時に車が発進した。
 高岡は助手席に座る春樹とキスをしながら、ギア操作とペダル操作をして青信号に従ったのだ。
 呆気にとられたアルファが発車し損ね、後続車のクラクションを浴びた。
 キスはほんの数秒間のことで、景色も飛ぶように消えていくわけではない。常識の範囲内での加速だった。
 思ってもいないキスから解放され、春樹はシートベルトをしっかとつかんだ。キスも運転の一部であるかのようだった。高岡の辞書には、ためらいという言葉がないのかもしれない。
「ど、どこに行くんですか」
 春樹は車の外を見ながら言った。ホテル街へ向かう様子はない。都内から出るとも思えなかった。
「残念ながら旅行ではない」
「え……じゃあホテル……?」
「俺の自宅だ」
 狂犬の家? そこで一晩過ごせと?
 普通の動作でステアリングを切る高岡が笑う。
「そう露骨に嫌がるな」
 春樹は目をとじた。頬を軽く叩かれる。自分が気に入らない表情をしたからと人を叩く男の家になど、本当に行きたくない。高岡を見ることなく目をあける。
「着いたぞ」
 都心といっていいところに高岡の自宅マンションはあった。
 隣接するマンションの三倍から四倍ほどの面積を要していたが、高層物件ではない。車はマンション外周を一度左折し、地下に続くスロープに入っていった。
 高岡は警備会社の制服を着る初老の男と会釈を交わした。奥からふたつ手前のスペースに車をとめる。
 シートベルトを外そうとした春樹の手がつかまれた。
「旅行ではなくてがっかりしたか」
「……そんなことないです」
「そう思う理由を言え」
 高岡が春樹のシートベルトを外す。春樹が座るシートが倒された。高岡は微笑んだままだ。春樹は駐車場の中ほどにある、大きな柱を見た。あの柱の向こうには警備員が座る詰め所のようなものがある。
 春樹の言いたいことはわかるのだろうが、高岡の表情は微塵も変わらなかった。
「警察と違い、多少のことをしても叱られたりしない。理由を教えろ」
「た、高岡さんも疲れているでしょうし、平日だけど連休にしてる人も多いと思うから、どこに行っても混むと思います。ぼ、ぼく、僕は高岡さんと一緒なら、どこでもいいです」
「見事なまでに歯の浮く台詞だな」
 苦笑気味の笑顔が近づく。何度触れたかわからない、形のいい唇の感触がした。
 舌が這い回るキスを予想して目をきつめにとじたが、高岡は舌を絡めることはしなかった。
 新田が好む、電流が発生する上唇の裏も舐めない。穏やかについばみ、耳の下から髪に指を差し入れてくる。
 唇の表面だけを楽しむようなキスだった。
「……あ」
 舌が欲しくなり、口がひらいた。漏れた自分の声が濡れたようだった。顔に血が集まる。
 キスをされて焦れたのは初めてだった。
 一向に舌を与えようとしない高岡の胸板に触れる。触り心地のいいカットソーの下に、高岡の鎖骨があった。指先でなぞる。重なる高岡の唇が笑い、鎖骨に触れた手をとられた。
「やめろ。くすぐったい」
 春樹は何も言わず、高岡を見た。自分の目が潤んでいるのは充分わかっている。顔にのぼった血が下半身に下りてきているのも、伝わっているはずだった。

 『お前は男とこういうことをするのが好きだから逃げないだけだ』

 無意識にかぶりを振っていた。高岡が怪訝な目をする。
 何か訊かれることが怖くて、春樹は目をとじて高岡の後頭部に両手を沿わせた。
「もっとキスして……深くしてください」
「唇が寂しいのか?」
「そうで、す」
 ひらいた口に、熱い舌が入る。春樹の返答を最後まで待たずに入った舌は、いつもと同じ味がした。
 煙草の辛味が残り、一度深く侵入されたら最後、どんなに嫌だと思っても翻弄される。
 これは男とのキスだ、と思う。
 春樹は女の子と唇を重ねたことはないが、抗う気力から先に削がれるこの行為に、自分は間違いなく酔っている。される側として。
 高岡の鎖骨に触れたとき、男らしいと感じた。厚い胸板の上部にある骨を、鋼鉄みたいだと思った。普通ならそこで憧憬するだけだ。こんな男性になりたい、この人のような肉体を手に入れたい。
 それを春樹は、自分の導火線に火をつけるものとして────味わっている。
 唇が離れた。高岡を追ってしまう春樹の舌先が、最後に軽く噛まれる。
「新田とはまだ寝ていないのか」
 耳もとで高岡にささやかれた。春樹は車の天井を見る。
「連休中に一度、客がつく。それまでに新田と寝ておけ」
 高岡は笑っていなかった。底光りをたたえた目に射貫かれるようだった。
 春樹が上半身を起こそうとすると、肩を強く押さえられた。返事を要求されている。
「寝ておくなんて、修一との関係は、そんなに軽いものじゃありません」
「変なところで意地を張るな。紳士的な客でも、一度でも体を売れば何かが変わる。言うとおりにしたほうがいい」
 客ではなくても、お前やお前の友人に抱かれているではないか。そこに金銭の授受が絡むだけだ。
 この男は、自分がしていることが十六歳の少年の心身を汚しているなどと、露ほども思っていないのだろう。
「僕と修一は、そんなことしなくても大丈夫です」
 春樹の肩から手が離れた。きつい眼光の目が伏せられる。
「お前の強情さを忘れていた」
 高岡が車のドアをあける。春樹も高岡の後に続いた。


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