Cufflinks
第一話・焔 第一章・4
奇妙な形のものが体内にあるため、春樹は車中で何度も座り直した。
「仔犬ちゃん。質問があればしていいぞ」
春樹はあることに納得して、思わず「そうか」と言ってしまった。
きょうの高岡がいつもと違うと感じたのは、服装のためだけではない。人を犬呼ばわりしなかったからだ。
高岡の車が信号停止した。
「質問があるなら今のうちだぞ。あと二、三分もしたら忙しくなる」
「あ、あの。あの……恋と愛って、違うんでしょうか」
言ってから青くなった。仕事に無関係な質問だからだ。
左隣に座る高岡は前方を見ている。くだらない質問への罰を考えているに違いない。
「ご、ごめんなさい。修一とつまらないことでケンカして。仲直りしたんですけど……変な質問で、ごめんなさい」
高岡は春樹を見ずに車を発進させた。繁華街に向かっているようだった。
「お前と恋愛談義をするとは思わなかった」
嘲笑を含んだ声がした。きょう初めて見る、高岡の笑顔があった。
「あすの朝までにはわかる」
「え?」
「お前の質問の答えだ。紙とペンを出せ」
ショルダーバッグからメモ帳とボールペンを出した。車は静かに走っていく。恐怖にかられる車線変更も、常識外れのスピードもなかった。
「今から何軒かの店名と、安全な人物の氏名、電話番号を教える。左を見ろ。あの角の雑居ビルの四階……」
高岡の言葉を、春樹は懸命に書きとめた。車は都心の街中を何度も曲がり、往復し、停車した。
書いた店名は二十近くになり、ほとんどがバーやスナック、カフェ、酒屋、花屋という店舗だったが、高岡と同業のSMクラブや医院もあった。
最初にネオンを見たときは西の空がオレンジ色に染まっていたが、書き終わったときには暗くなっていた。
「できないことを強要されるなどして、ダメージを受けたときの避難先だ。皆、商売がある。善意に甘えずにすむよう、用心を怠るな。安全な人物が永久に安全だという保証はない。相手が名乗るのを待て。連絡先はできれば暗記しろ」
「む、無理です」
「必死になれば覚えられる」
春樹はメモを読み返してみる。店名、店の電話番号と安全人物の携帯電話番号、それらを高岡はソラで口にしていた。書きとめるだけで汗をかいたのに、これらを覚えろと?
(T大合格経験者と一緒にするなよ)
車が流れに乗って走り出した。春樹はメモ帳とボールペンをしまった。
「高岡彰の名を出しても助けてもらえなければ、織田沼彰と言ってみろ」
オダヌマ アキラ────オダヌマというのは前にも聞いたことがある。
高岡に初めてキスをされた、父の社の会議室。
あそこで高岡と話した人物が、高岡を見て「織田沼さん」と呼んでいた。
「あの……織田沼って……」
「父の姓だ」
答えが返ってくるとは思っていなかったのと、前にも思った疑問で春樹は高岡を見た。高岡に初めて抱かれた夜、この男は母子家庭に育ったと言っていたはずだ。
「高岡さんって、母子かて、いっ」
唐突に切られたステアリングが高岡の手の中で元に戻る。長く尾を引くクラクションと罵声が春樹の耳に飛び込んできた。また始まったのだ。狂犬の自己中心的な運転が。
「たっ、高岡さんっ! やめてください!」
「安心しろ。高速には乗らない」
交通事故は高速道路だけで起きるのではない。高岡に追い越され、隣の車線に移って走る車の同乗者に睨まれる。相手が乗るのは鈍く光るグレーの車だ。右ハンドルのため、窓を下ろして挑発行為をするのは同乗者だった。こちらの窓を下ろせと言っているようだ。
挑発行為といっても先に仕掛けた格好になったのは、高岡なのだが。
「仔犬ちゃん。窓を下ろしてやれ」
「いやですっ!」
「下ろしてやれと言っている」
不敵な面構えで微笑む高岡に、従うほかはない。同乗者を見ないようにして窓を下ろす。
相手の言い分は罵詈雑言ばかりであった。当然だろう。高岡は二十代前半らしき男の罵りを、ラジオか音楽でも聴くように、楽しげに聞いていた。
「アルファ166。少し遊ぶか」
赤信号が見えた。高岡は相手の車種名と思しきものを言い、クラッチペダルとブレーキを踏み込んでいく。高岡に初めて抱かれた日の翌朝、こうして停車し、信号が青に変わってからが恐怖だった。ギアを入れ、エンジンの音が変わったと思ったら一気に車窓を流れる景色が飛んでいった。強引な車線変更もだが、体に衝撃が伝わらないのに過ぎた加速がされるのが怖い。車が好きな人なら楽しいのかもしれないが、春樹には馴染めそうもなかった。
「あ、遊ばないでください。安全運転じゃなきゃ嫌です!」
「危険な運転をするつもりはないが」
この狂犬は本当に免許を持っているのだろうか。隣の車からはまだ罵声が飛んでいる。
「一泊旅行、するんですよね? 高岡さんとふたりきりがいいです。ほかの人とは遊ばないでください!」
「ほう。それは本心か」
「本心ですっ!!」
春樹は目をとじて大声で言った。もう信号が変わってもおかしくない。右側から指笛の音がした。
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