Cufflinks
第一話・焔 第一章・4
灯りをつけない寝室に、夕陽が射し込んでくる。
帰宅することを怖いと思ったのは初めてだった。
春樹は一泊旅行の用意をしていた。どこに行くのか、何のために行くのか。何も知らされていない。同行者が高岡彰という、春樹を蹂躙する恐ろしい狂犬だとわかっているだけだ。
男性用のショルダーバッグに着替えを入れる。下着をひととおり入れた時点で手がとまった。
学習机の引き出しからクリーム色のハンドタオルを出す。新田の母がキキョウの刺繍をしたそれを胸に当てる。
今朝の夢は、正夢なのではないだろうか。
安宿に泊まり、後ろから狂犬に動物のような姿で犯されていた。
喉を冷やすための水を飲むことも許されず、ひどい言葉を浴びせられる。
(嫌だ……行きたくない)
春樹の目がクローゼットに向く。高岡に初めて抱かれた日、春樹は荷造りをして逃げようとしていた。一度は着替えと現金と母の遺影を詰め込んだボストンバッグが、クローゼットの奥にしまってある。
きょうだけ高岡から逃げても、逃げきるには準備不足だ。春樹に売春をしろと命じた父の社は、国の内外で知られる大企業である。新田のことまで調べている。春樹には頼る親戚もない。助けを求める先といえば、警察か福祉関係、学校しか思い浮かばない。
公に知られる。それは、新田との別離を意味する。
『愛してる』
売春などせずに施設で細々と生活をする春樹を、新田は見捨てないだろう。
だが────────
春樹の思考はいつもここで停止する。
春樹は金銭的な苦労を経験していない。貧困に対する恐怖や嫌悪がないといったら、嘘になる。竹下を路頭に迷わせることもできない。何よりも、退学を想像すると身が裂かれそうになる。
「修一……助けてよ……」
春樹は携帯電話をひらいた。新田の声が聞きたい。他愛ないことでいい。
新田の番号を表示させたときだった。
玄関の鍵があけられる音がした。
高岡はあっという間に、寝室の中に入ってきた。
灯りのない寝室で光る高岡の目が、春樹が手にしているハンドタオルと携帯電話をとらえた。
「やめてっ!」
春樹の頭が押さえつけられる。携帯電話もハンドタオルも、難なく高岡に取り上げられた。
「やめてやめて! 返して!」
携帯電話の画面を見る高岡は無表情だった。新田先輩と書かれた文字を見ているだろうに、眉ひとつ動かさない。
「新田に急ぎの電話があるなら、かけてもいい」
高岡は腕を組んで言った。春樹に携帯電話を返してくる。春樹は携帯電話を胸に抱き、小刻みに震える顔で高岡を見上げる。
「どうした。かけないなら支度をしろ」
春樹は携帯電話をとじた。低い声で「はい」とだけ言い、ショルダーバッグを持ってクローゼットをあける。
「電話を使う用件はないのか」
「ないです」
ベッドの上に置いた携帯電話を、高岡が手に取る気配がした。慌てて振り向く。高岡が電源ボタンを長押しした。
電源を切られた携帯電話が、学習机の上に置かれた。
「あすまでこれは必要ない。置いていけ」
嫌だ、という叫びが喉仏の下まで到達した。しかし春樹が叫んだのは別の言葉だった。
「何するの?! やめてッ!!」
高岡はキキョウのハンドタオルを広げて左手に持ち、右手でライターを出していた。目も口もとも笑っていない。
ライターの蓋がひらく金属音がした。
「やめて……! やめてください! お願い返してっ!!」
春樹の声は泣き声になっていた。ショルダーバッグを床に落とし、高岡にすがりつく。
光を帯びる双眸が揺れる様は、まさしく夢と同じだった。
「取り返そうとする理由を言え。言わなければ燃やす」
「しゅい、ち……修一からもらった、大切なものです。お願いします。お願い……!」
春樹の手の甲に、紫のキキョウが舞い降りた。高岡がハンドタオルを返したのだ。
「それなら持っていけ。きっと役に立つ」
春樹は涙を拭いながら大切な布を握った。たたんでバッグに入れる。服を選ぼうとしたら、クローゼットの扉をとじられた。
「着替えは下着だけでいい。コンドームとローションを出してベッドにうつ伏せになれ」
「……え……」
「二度は言わん。裸になる必要はない。ズボンと下着を膝まで下ろしておけ」
高岡は上着を脱ぐと、部屋の灯りをつけながら寝室を出ていった。洗面所から手を洗うような音がする。
春樹はコンドームの綴りとチューブ入りローションをベッドの宮棚に置き、指示どおりの格好をした。
(出発前にやるつもりなのか)
目をとじた。抵抗したところで、高岡は決行するに決まっている。
これも仕事なら早く覚えるしかない。
「ベッドの端から両脚を下ろせ」
寝室の戸口から高岡の声がした。指示に従う。高岡がコンドームを取った。自分の指に被せている。ローションを取ってベッドに腰かける。春樹の尻が広げられた。
「ひゃっ」
後ろの穴に直接、冷たいローションが絞り落とされた。高岡は指に被せた膜にもローションを垂らし、穴に侵入させてくる。
「う……」
根元まで入れずに、第二関節あたりまで入れてから内壁を揉み始めた。入り口に近い弱いところを避けているわけではないようだが、性的な感触は何も感じられない。
春樹は横を向き、高岡を見た。きょうの高岡は、どこかが違っていた。光る目と香りは同じだが、雰囲気が違う。
ジップアップのジャケットも初めて見たが、襟のないカットソー姿も初めてだった。濃紺の生地が体に沿い、若々しい印象だ。春樹も制服から着替えていたが、どこに行くかわからなかったので襟付きのシャツにしていた。
高岡の服装から考えると、遠出はしないような気がしてきた。
「向こうを向いていろ」
「は、はい」
じろじろと見たのがいけなかったのだろうか。怒ってはいないようだが、何を考えているのかわからない。
「力を抜け。何度か深呼吸をしろ」
高岡が男の部分を露出した様子はなかった。何をされるかわからない恐怖など、高岡に関わる限りついてまわるのだ。春樹は何も考えずに呼吸を開始した。何度目かの息を吐いたとき、硬いものが穴に触れた。人間の一部とは思えない。
「呼吸を続けろ」
返事をする代わりに深く呼吸をする。息を吐くときに合わせるように、硬いものが入ってくる。
「う! 痛……!」
「痛いのはここだけだ。息を吐け。溜め息をつくようにしろ」
大きな溜め息と同時に、ずるりと何かが入ってきた。高岡の言葉どおり、強い痛みはすぐにひいた。
「そのまま身支度をしろ。下着の他に持っていくものは紙とペンだ」
「こ、これを入れたまま歩くんですか?」
「そのまま、の意味が他にあるか」
高岡はふたたび洗面所に向かった。春樹は穴をふさぐ物体に触れようとしたが、思いとどまった。
知りたくないと心が言っていた。
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