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第一話・焔 第一章・4
この朝の運転は、おおむね安心できるものだった。
春樹の自宅マンションの駐車場に車が入る。エンジンを切った車内が急に静かになった。
高岡は壬と何を話したのか、何を思ったのか、一切聞こうとはしなかった。
春樹も自分から話すことはなく、車内は無言だった。不思議なことに、無言は苦痛ではなかった。
「ありがとうございました。服、大事に着ます」
「感謝の意を行動で表せ」
左隣の高岡が、唇の端を上げた。こういうときの、こいつの邪(よこしま)な考えは察しがつく。キスを望んでいるのだ。
春樹はシートベルトを外した。案の定こちらを向こうとする高岡の腕に触れる。
「前を見て、目をとじてください」
高岡は質問もせず、余裕の微笑みを崩さない。
大人しく前を見る高岡の右頬に、唇を寄せた。
濃く長い高岡のまつ毛が上下にひらいた。
「何故そこに?」
「すごく怖いことをされたから、唇にしようとは思いませんでした」
「なるほど。一理ある」
目を伏せて微笑む高岡が、服の入った袋を取る。手渡された袋から、かすかに草の匂いがした。
車から出ようとした春樹の二の腕がつかまれた。
「くどいようだが、新田と早めに寝ておけ。意地を張るな」
春樹は返事をしなかった。二の腕が放される。
「泣き虫で強情な仔犬ちゃん。恋と愛はどう違う?」
「……人生を賭けるのが愛だって、高岡さんは言いました」
「お前の意見を訊いている」
春樹の脳裏に壬の中庭が浮かんだ。
「こんがらがる度に大騒ぎするのが恋で、こんがらがっても信じるのが愛です」
高岡の目の光が強くなった。眉と唇の端が上がる。
好戦的な狂犬に戻った気がした。
「面白い比喩だ。新田とこんがらがっても大騒ぎしない日が来ることを祈る」
「大丈夫です! 安全運転で帰ってください!」
エンジンがかけられる。いつもの笑みを浮かべた高岡が、いつものように振り返らずに去っていく。
春樹はエレベーターに向かうことも、階段を上がることもしなかった。
一刻も早く高岡の支配から逃れたい。それは事実だ。
しかし高岡から逃れても、春樹の体は父の社のものだ。高岡と会う度に騒いでも状況に変化は起きない。
『こんがらがっても進むしかないよ』
春樹は駐車場から外に出た。自宅マンションを後にして、五分ほど歩く。
公園では子どもたちがボール遊びをしていた。新田が新聞を持ってきてくれた日と変わらない。風が気持ちいい。
新田と一緒に座ったベンチに腰を下ろす。
あの日、新田はここで手をつないでくれた。ボールを持った子につないだ手を指差されても、離そうとしなかった。
仲良しだから手をつないでいると言い、キスをしてくれた。
携帯電話をひらく。迷わず新田の番号を表示し、通話ボタンを押す。
数回の呼び出し音の後、新田の声がした。優しい声だった。
「シバザクラの写真ありがとう。今、何してた?」
小さな電話機を通して、何でもないことを話した。
ボールが空に蹴り上げられる。青い空に赤いボールがきれいだった。
高岡から悪夢そのもののことをされても、今、ここで聞いているのは新田の声だ。
公園の景色や空気の爽やかさを新田に伝えているのは、自分の声だ。
ふたりは短い会話を終えて電話を切った。いつもは新田との電話を終えた後、寂しくて携帯電話を離せなかった。
今は静かにしまうことができる。
新田との時間は、新田と過ごしているときだけではない。信じればそこに新田はいる。
自分の横を見る。少し鋭角になった新田の横顔が、鮮やかによみがえる。
春樹は立ち上がった。ショルダーバッグと服の袋を持っても、新田の残像はかすまない。
母は他界し、父は春樹を見捨てた。自分の力で進むしかないのだ。
空にUFOは来なくても、新田の残像はいつでも見られる。
天候に恵まれた祝日の、穏やかな風が吹いた。春樹の頬を撫で、髪を揺らす。
耳の後ろにつけられた高岡の香りがしたが、こんがらがりはしなかった。
< 第二章・1へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました! 続きは第2章・1のupまでお待ちください。
先月末頃にupする予定だったのですが、遅れて申し訳ありませんでした。
今回は痛いシーンがあるため断り書きが多くなりました。すみません。
当初、壬は番外編で初登場する予定だったのですが、
本編とのつながりを再構築したらここで出てもらったほうが
いいかなと思い、少々早目の登場となりました。
ようやく第1章が終わったので、一度番外編を入れたいなあと思うのですが、
本編以外は大まかなプロットしかできておりませんので、どうなるか未定です。
蛇足:アルファ166はセダンタイプのボディがモデルです。
アルファロメオはクーペだろ、と思いつつ(汗)
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