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第一話・焔 第一章・4


 狂犬出演の夢のおかげか、きのうの朝より一時間早く学校に着いた。
 昨夜眠るまで待ったが、新田からの連絡はなかった。新田と携帯番号とメールアドレスの交換をしてから、一通のメールもない日は初めてだった。
 須堂と過ごしたホテルから出た後、春樹は新田に電話をかけることができなかった。自宅に戻ってからも同じだった。書いたメールを消したのは十回近くになった。
 須堂は嫌な男ではなかったが、下校後に彼とホテルでした行為は肯定されるものではない。
 寝た相手の体温が思い出せるうちに、積極的に新田と話せる心境にはなれない。
 それでも、新田からの連絡は欲しい。
(勝手、だよな)
 通用門脇にある小屋にいる教師に、生徒手帳を渡す。防犯の意味で始業時間の三十分前にならないと正面校門はあかない。部活動の早朝練習などで登校する生徒は、ここで来校者台帳に教師が記録をつけるのを待つのだ。
 校庭の向こう側に、竹ボウキを持つシルエットが見えた。春樹は鞄を抱えて駆け出した。
「修一! 新田先輩! お早うございます!」
 いつもなら春樹の姿を認めるとすぐに手を振ってくれる新田が、竹ボウキを離さない。
 笑顔も、いつもの白い歯を見せるものではなかった。
「きのう手伝えなくてごめんなさい。今、掃除道具取ってきます」
「無理しなくていい」
「……え?」
「無理して朝早く起きなくていい。体調が完全によくなるまで、体に負担をかけることはするな」
 新田の表情は穏やかだった。まるで観音様のように、静かに春樹を見ている。
「なんで……無理なんかしてない。今だって走ってこれたよ? なんでそんな」
「高岡さんも進路を心配してるんだろう? お前の進路はわからないけど、勉強は大事だ。テスト期間も迫ってる。まずは体をきちんとしないとだめだ」
 春樹の目の奥で、プツッという音がした。
「た、高岡さん高岡さんって。あの人は父親でもないし、やたらと厳しいし、遠回しなことばかり言うし、そのくせ短気でおかしな人だよ! 修一は少ししか話してないからわからないんだ。僕はあの人に心配されるより、修一と花の手入れしたり掃除したり、色々な話をしたりするほうがいいよ!」
 新田の唇がわずかにひらく。春樹はもう言葉を押し戻せなくなっていた。
「メールや電話だって……修一は家族と住んでるから、夜ひとりでいる僕と違うのはわかる。わかるけど、きのうずっと待ってた。待ってたんだから!」
 何を言っているのかわからなくなってきた。
 目の前にいる新田が大きな仏像のようで、自分がだんだん小さくなっていく。
「ほんとに体調が悪かったら学校休んでるよ。お願いわかって。修一と一緒にいたいんだ。朝の掃除も毎朝手伝えるように、体に気をつけるから……!」
 新田が竹ボウキを置いた。手の土を払い、春樹の手にそっと重ねる。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、一分一秒でも長く一緒にいるだけが愛情じゃないと思う」
 直下型の地震が起きた気がした。
 本当に、春樹の真下だけで起こったのではないだろうか。
 揺れに驚いて数歩下がった。新田の手が離れる。
「春樹? 顔が真っ青だぞ」
 再度伸ばしてきた新田の手を振り払う。両手で口を覆う。音をたてて鞄が落ちた。
 今この手を口から離したら、ものすごい悲鳴が出ると思った。
 新田の鼓膜を傷つけ、自分を内側からズタズタにする、恐ろしい声が。
 春樹は全速力で逃げた。足が勝手に用具倉庫を目指す。

 『一分一秒でも長く一緒にいるだけが愛情じゃないと思う』

 それは春樹を全否定する言葉だった。
 春樹の年齢ならわかる。悪い意味で使うものではないと。
 だが、今の春樹は、体まで売って新田から離れまいとしているのだ。
 あの金曜日、母の命日でもあり春樹が十六歳になった日から、ずっと感じているいきどおり。
 高岡に男との行為を教えられる度に襲われる後悔の念。体に醜い痕を残す鞭の恐怖。
 これから待ち受けている、金で自分を買う男と寝るということ────
 焔という炎に巻かれ、自分から脚をひらいた。腰も使った。
 あれをするのだ。週末毎に。
 新田と過ごすために。

 『そもそもお前は新田をどれくらい愛している?』

 土に埋まっていた石につまずいた。転んだと同時に激しく咳き込む。
 春樹の目の前には用具倉庫がある。体を起こし、用具倉庫の裏に回る。裏にあるのは庭木と土手とフェンスだけだ。フェンスの向こうは校外になる。
 用具倉庫の壁にもたれた。膝に手をつく。中腰になり、切れ切れの息が正常に戻るのを待った。
 新田を責める理由などない。新田の言っていることは正しい。新田は春樹と違い、幼稚さがこれっぽっちもない。

  新田は春樹の体調や進路を気にかけてくれている。では、春樹は?

 このまま逃げ帰りたい。
 壁から離れようとした。胸に何かが当たった。
 新田の大きな手だった。
「この……ばか!」
 新田が大きな声で言った。息が切れている。新田は右手で春樹の胸を押さえ、左手を用具倉庫の壁についた。
「しゅ、修一、あの」
「黙ってろ」
 新田に両方の二の腕をつかまれる。背中を壁に強く押し当てられた。少し怒ったような新田の顔が目前に迫る。
「しゅ……う、んっ」
 目をとじるかとじないかの間に奪われた口は、新田の舌を深く受け入れた。
 舌が舌を舐め、何度か重なる角度を変え、噛むように絡み合う。
 荒い息づかいを隠しもしない、欲望が剥き出しのキスだった。
 唇が離れるとき、唾液が糸を引いた。新田が指で糸を絡め取り、春樹を見据えたままそれを舐めた。
 春樹の目が潤み、膝から力が抜けそうになった。
「高岡さんが短気でおかしな人って、どういうことだ? 殴ったりするのか?」
 新田が呼吸を整えないまま尋ねた。春樹は無言で首を横に振る。新田の片手はまだ春樹の二の腕から離れない。
「本当か?」
「本当だよ。大丈夫。あの人はT大中退して、変わってるんだ。それよりごめん。僕、訳のわからないことばかり言って、突然逃げて……また修一を困らせた」
 新田は春樹から手を離さずにネクタイをゆるめた。その仕草にはかすかな色気があった。新田の違う魅力を見た気がして、春樹の鼓動はスピードを増した。
「俺のほうこそ物わかりのいいふりして、悪かった。夜の電話やメール、うざったくて嫌われるかと思って……怖かった。だからしなかった。お前の体調がおかしくなってからは、早く寝させたほうがいいとも思ったし」
「怖かった……? 修一が?」
「ああ、怖い。お前はかわいいし、放っておけない感じがするし……だれかに盗られるのも、嫌われるのも怖い。体のために早く寝てるといいなと思いながら、すぐに飛んでいきたくなったりする。怖いんだ、本当に。こんな気持ち、生まれて初めてだ」
 修一と言おうとした唇が、人差し指で封じられた。
「俺もお前の親じゃないのに、心配しすぎた。これだけ走れれば大丈夫だ。でも、掃除も花の手入れも、無理はしないでほしい。俺は本気で、本気でお前のこと好きだ。本気で────」
 唇から指が離れた。強い力で抱きしめられる。
 庭木と高い土手、それにフェンスで隠されているとはいえ、数メートル先には生徒が歩く歩道がある。登校する生徒の声もしている。
 用具倉庫の中に入ろうと言わずに、ここでキスして抱きしめてくれた。春樹は目をとじて新田の体を抱いた。
「春樹────あ、愛してる」
 春樹の頬に重なる新田の頬が熱い。こんな熱さは、記憶になかった。
「修一、嬉しい……大事に思ってくれる気持ち、嬉しい。でも、さっきのキスが一番、嬉しかった」
「ばか。びっくりしてお前の鞄もホウキも、置きっぱなしだ」
 頬を赤らめた新田に手を引かれ、ふたりは明るい校庭に戻った。


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