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第一話・焔 第一章・4


 ちょうどストローを吸ったときだったので、派手にむせた。おしぼりを口に当てる。
 壬は組んだ両手の上にあごを乗せていた。きょうの風に似た、穏やかな笑顔だった。
「僕は思った。実際に言ったけど。ベッドから転げ落ちて、ホフク前進で這ってって。罵倒しながらゴミというゴミを全部ぶちまけてやった。それでも気がすまなくて高岡に殴りかかったら、足が痛くてさ。ベッドから落ちたときに捻挫してたんだ。笑えるよね」
「……い、え」
 優しそうな外見と正反対の激しさに、どう答えていいのかわからない。無害な笑顔で言うところが余計に怖いが、あの生活感のない部屋にゴミが散乱した様を考えると、痛快な気分になった。
「あいつ、僕の足がおかしいって気付いて。変によけたら僕が余計に痛めると思ったらしくて、殴られるままになった。一発食らえばいいだけなのに。生ゴミ被った格好で僕を病院に連れてって。医者から大目玉くらっても言い訳しないんだよね。ほんと変わってる。僕の場合一銭にもならないのに引き受けて。暇でもないのに」
「あの……壬さん。壬さんは、高岡さんのこと……」
「嫌いだよ。でも感謝してる」
 壬の笑顔が不敵なものに変わった。顔立ちこそ違うが、高岡の表情に似ていた。
「僕は十八のときがフィスト初体験。その前からウリはしてたけどね。借金があって、たちの悪いサディストの客に買われることになって。知り合いにあいつを紹介された。フィストって愛してる相手にされてこそ意味があるらしいけど、僕には理解できない。理解できないけど、仕事は楽になったよ。最初が高岡じゃなかったら大怪我してたと思う」
「最初って。あんな、あんなこと何度もしないといけないの?」
「きみの事情知らないから絶対とは言えないけど、よっぽど悪い客につかなければ大丈夫。でもやられる側は無防備で密室だから、注意を怠ると怖いよ」
 壬の言うことは、高岡が鞭打って言ったことと同じだった。春樹は話の内容以上に、壬のしなやかな体と不敵な一面を持つ笑顔、そしてこの店が気になった。あの痛みと恐怖が繰り返されると想像するのも恐ろしい。しかし、現実として目の前にいる壬はあの蛮行を何度か受け入れたのだ。借金を返済し、都内に立派な店舗を構えることができた。
 決して頑健そうではない、春樹に似て小柄な肉体で人生を変えた。悪い客に踏みにじられても負けなかったのだ。
 あっけらかんと話す壬とは対照的に、春樹はうつむいていく。
 儚げに見えても高岡に殴りかかる人物だ。強い精神力の持ち主なのだ。
「すごいんですね、壬さんって。僕には無理だと思います」
 ミルクティーのコップが、こつん、と鳴った。壬のコップが当たった音だった。
 壬のハーブティーが日光を透かす。テーブルにきれいな影ができた。
「無理だったら、どうするの?」
「えっ……」
「他に道がないから、僕とこんな話をしてるんでしょ。嫌な仕事だよ実際。僕はよく泣いたし、吐いたし、暴れてた。昼夜逆転の生活だったから郵便物も溜め込んで。ある日、何の気なしに郵便物見たら洋裁専門学校の入学案内があった。消印がないの。高岡が直接郵便受けに入れたんだ。僕が服が好きで洋裁に興味あるのを覚えてて、勝手に取り寄せたってわけ。捨てたよ、ビリビリに破いて。ばかにしやがって、って思った。体を休めるのが精一杯の生活なのに、無理だろって。でもあいつ、しつこいからさ。捨てても捨てても入れてくる。いい加減根負けして、週に二度通った。おかげできみの服も手直しできるようになったんだけどね」
 柔和な笑顔を浮かべた壬が立ち上がった。店内では開店準備が進んでいた。
「きみは優しい子だね。高岡を憎みきれないんだ」
「そっ! そんなことないです。大嫌いです! あんな狂犬!」
 口を押さえて店を見た。準備作業の邪魔になると思ったのか、高岡が庭に出てくる。
 春樹は避難訓練よろしくテーブルの下に潜り込んだ。
「あはは。狂犬は初めて聞いた。いいね、その呼び名。あいつにぴったりだ」
「声が大きいですっ」
「大丈夫だよ。そんなことでは怒らないから。出ておいで」
 壬が春樹に手を差し伸べる。触れた手は思ったより華奢で、花の香りが女性のようだった。
 この小柄な男が、悪魔の所業に何度も耐えた。洋裁の技術を学びながら。
 高岡に手を入れられ、高岡が用意した学校に通った。
「……高岡さんのせいで、こんがらがってます」
 つないだ手を離さずに、春樹はつぶやいた。壬がしゃがみ込んで春樹を見つめる。
 壬の瞳は真っ黒だった。春樹も黒い瞳だが、底がないような黒さは初めて見た。日本人形の目に似ている。
「こんがらがっても進むしかないよ」
 テーブルの下に入ったことで汚れた春樹の膝を、壬の小さな手が払う。
「進めるのかな……」
「こんがらがる度に大騒ぎしているうちは、進んでるって思えないかもね」
「壬さんは、いつ大騒ぎしなくなったの?」
「根負けして、洋裁学校に通うようになったころかな」
 店外のベンチに座る高岡に、壬が手を振った。高岡は眉をひそめて腕時計を指した。
 開店時間が迫っているぞと言いたいのだろう。
「やだね。せっかち男は。あいつ、今もグズアレルギーが出るって言う?」
「言います。壬さんも言われたんですか」
「しょっちゅう言われた。出たためしがないけどね」
 春樹と壬は、顔を見合わせて笑った。
 新田の庭でブッチャーことチビという大きな猫を見たときと、同じような笑いだった。
 壬がコップをトレイに乗せる。
 また来てねという声を背に、春樹は高岡の元に戻った。


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