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第一話・焔 第一章・4


 春樹は洗面台の鏡を見た。普段と変わらない顔だった。
 あんなにひどいことをされても憔悴していない。目の下にクマもなく、まぶたも腫れていない。顔色も普通だ。
 高岡に言ったことはすべて真実だ。小学校低学年くらいまで、こうして鏡を見るとき、いつかUFOが自分を連れに来るかもしれないと思った。両親の子という認識がなかったので、小さなころは空ばかり見て転ぶことも多かった。UFOを探していたからだ。
 春樹の鼻が、記憶にあるものと似た香りを感知した。
 高岡の香りのようだが、少し違う気がする。狂犬の耳の下あたりから揮発する香りより、きつい感じだった。
「支度はできたか」
「はい……あの、聞いてもいいですか」
「何だ」
「やっぱりいいです」
 歯ブラシを咥えた高岡に二の腕をつかまれた。言いかけたら言え、と、目が言っている。
「あの……いつもの香水……オー何とかの。あれってどんなのですか?」
 一瞬考えた高岡が苦笑した。鏡の裏の棚から香水瓶が取り出された。
 透明な瓶の中に、無色に近い淡い黄緑色の液体が入っている。
 春樹は銀色の蓋部分を嗅いでみた。やはりこの香りだ。
「つけてみるか」
「え、あ、いいです」
 口をすすいだ高岡が、春樹から香水瓶を取り上げる。蓋をあける顔がにやついた。
「新田とするキスをしろ。ただし唇が触れたら、そのままだ」
 質問したことを後悔した。できるだけゆっくり高岡に向き直る。
「仔犬ちゃん。最初のひと言も忘れるな」
 春樹の頬が熱くなった。高岡の胸板に触れ、背伸びをする。目をとじてささやく。
「……好き」
 一度目をあけ、満足げに端を上げる高岡の唇に口づけた。
 春樹の耳の後ろを、高岡の指先が線を描くようになぞった。高岡の唇が離れる。
 春樹は自分の耳の後ろに触れて、指を嗅いでみた。レモンの皮に似た香りがした。
「新田がオー何とかと言ったのか?」
 慣れた仕草で自分にも香水をつけた高岡が、笑みをたたえたまま言った。
 春樹が学校で吐いてしまった日、心配した新田が春樹の自宅マンションを訪ねた。新田はマンションの駐車場で高岡に会い、少し会話を交わしたのだ。そのときに狂犬が自分のセンスを自慢したらしい。
「何とかとは言ってません。聞いたけど忘れました。修一はその……褒めてました」
「これはただのオードトワレだ。褒められるような代物ではない」
「何で修一に自慢したんですか?」
 言ってしまってから口を押さえた。高岡は吹き出し、廊下に出る。
「いい香りですねと言われたので、オードトワレだよと言っただけだ。行くぞ」
 春樹は玄関に置いたショルダーバッグを持ち、靴をはいた。
 四月最後の祝日の朝は、ばかばかしいほどに快晴だった。


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