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第一話・焔 第一章・4


 キッチンカウンターに朝食が並んでいた。
 この部屋にはダイニングテーブルがない。そのためなのかはわからないが、カウンターは大きめだった。
 おかずは意外にも、春樹の好物である筑前煮だった。
 高岡と対面で食べるのでなければ、きっともっとおいしいだろう。
「相変わらずの箸使いだな」
「……すみません。お、おかず、おいしいです」
「出来合いの惣菜だが口に合うか」
「はい」
 高岡が煮物を作る姿は想像できない。白米は前に食べたときと変わらず、ちょうどいい炊き加減だった。味噌汁の具も前回と同じで大きい。ネギがつながっている。
「その箸使いはどうにかならんか。家政婦とは食事を摂らないのか。だれに教わった」
「食事を一緒にするのは、たまにあります。小学校の低学年くらいまでスプーンやフォークばかりでした。食べるの遅いと家政婦さんに悪いって、父が決めたみたいです。竹下さ……今の家政婦さんは、それはよくないって教え直してくれたんですけど、もう変な癖がついてて」
「市販の矯正箸でも使ってみろ。効果のほどはわからんが」
「はい……」
 高岡の食べ方を見てみる。器を手に持ってから箸を取り、箸を置いてから器を下ろす。箸を舐めることも食材に突き刺すこともない。箸が交差することもなく、フレンチレストランのときと同じで自然だ。飯粒が付き放題の春樹の箸と違い、ほとんど汚れなかった。
 試しに真似をしてみるが、器を持った手の指で箸を挟んで利き手を滑らすなんて、滑らかにできるものではない。器を持つ手がつりそうだった。
「高岡さんは、だれに教えてもらったんですか」
「箸使いのことなら、母だ」
「でも、あの……お母さんはあまり家にいなかった、って」
「母は遊び歩くのが趣味だったが、礼法の免許皆伝者だった。おかげで俺も自然と身についた」
 何だ。テレビもなくて公共料金を滞納しても、苦労知らずの一面もあるのだ。
 それにしてもおかしな家庭だ。貧困な母子家庭でありながら、母親は遊び好き。その母は作法に問題のない人物だという。高岡自身は中学時代に漁港の市場でアルバイトをしたと言っていた。不思議なのは、難関私立高校に通えたことだ。奨学金を利用したかは知らないが、名のある高校だ。専属といっていい学習塾があり、中学に入学した時点で入塾して寸暇を惜しまず勉強し、ようやく難関大学を狙えると聞いたことがある。
 夜の街で顔がきく別姓の父親もいるようだし、小さなころからひとりで部屋にいる春樹とは違うのだ。
 春樹が知る母は遺影の中にしかいない。父の顔も名前も知らない。
「いいな……お母さんと一緒に、ご飯食べたんだ」
 自宅の外で、初めて口にした言葉だった。
 竹下の前でも滅多に言わなかった。教師にも級友にも、新田にも言ったことはない。
 涙が────涙が目頭に溜まった。慌てて箸を置いて顔を伏せる。
 カウンターの端にあるティッシュが春樹の前に置かれた。
「ごめ、ごめんなさい」
「その程度のことで謝る必要はない」
「でも」
「口答えは許さん。泣くか食べるかどちらかにしろ。気管に入る」
「……食べます」
 春樹は涙を拭いて食事を続けた。ばかみたいな行動だが、空腹には勝てない。
 筑前煮と味噌汁、白米と青菜のお浸しをすべて食べ、箸を置いた。胸の前で手を合わせる。
 挨拶をしなくてはならないのはわかっていたが、声帯は違う言葉を出したいと主張した。
「どうして僕はこうなんだろう」
 先に食べ終えていた高岡が、我関せずといった様子で自分の食器を重ねた。
 挨拶を要求する素振りはない。春樹は言葉を続けた。
「わかってるんです。十六にもなって、こんなことで泣いても意味ないって。僕はやること遅いし、頭もよくない。修一にふさわしくないってこと、僕が一番わかってる。時々、すごく不安になります。僕はほんとに地球にいるのかなって。母のこと知らない人ばかりなのに、写真立てには母がいます。名前も顔も知らない父のせいでこんなことになってるけど、父を殺してやろうとか、会いたいとか、そんなことは思わない。今住んでる部屋に突然僕が湧いて出て、出来の悪い僕を色んな人が世話してる。僕は地球人じゃないのかもって、小さいころは本気で思ってました。すみません。初めて人に話したから、意味不明になりました。あ……ごちそうさまでした」
 夕暮れどきや夜、ひとりで部屋にいると、たまに思うことだった。
 考えすぎると頭が痛くなるのでまとめたことはなかったが、口にしてみたら些細なことに思える。
 何も泣くことはないのだ。それも狂犬の前で。まだ新田にも話していないのに。
 春樹は食器をカウンター中央のシンクまで運んだ。高岡が濡れた手を伸ばしてくる。洗うから渡せということらしい。
「知りたいか」
「え?」
「父親の氏名と顔だ」
 いいえ、と言うつもりだった。言葉が出てこない。スツールに座ることもその場を離れることもできない。
 春樹はシンクを挟んで高岡を見るだけだった。
「俺はお前に関して、お前が知っている以上のことは知らされていない。知りたければ調べることになる」
「調べるって……」
「いいか春樹。父親について知ったところで、お前を助けるのはお前の努力と気性だ。お前は体だけで客を呼べる器ではない。父親を気にする前に、やるべきことが山積みだということを忘れるな」
 食器を洗い終えた高岡が、春樹を真正面から見た。動物に似た目が光っている。
 いつもの底光りをたたえた瞳が、室内に差し込む朝陽を受けてガラス玉みたいになっていた。
「調べていただかなくていいです」
 高岡の目は春樹を貫いたままだ。本心を探っているのは明らかだった。
「本当に、いいです。高岡さんと初めて会った日、僕は登校したかった。父に会うの楽しみじゃなかったんです。呼ばれたから行く、それだけ。好奇心がまったくなかったかっていったら、嘘になりますけど」
 高岡は数秒間春樹を見ていたが、何も言わずに目を伏せた。洗った食器に布巾をかけてキッチンを後にする。
「お前の言い分を信じよう。身支度を整えなさい」


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