Cufflinks
第一話・焔 第一章・4
狂犬の寝床はホテル並みに整えられていた。
シャワーを済ませた春樹がリビングに入ったとき、高岡はカウチソファでくつろいでいた。好きだと言っていたテレビを眺め、春樹には一瞥もくれなかった。
ただひとつ、髪を完全に乾かしてからベッドに入るよう命令された。
春樹は恐る恐るベッドに腰を下ろした。薄いベージュのシーツはぴんと張られ、糊の香りがしている。肌掛けはシーツより濃い色の、ブラウンの布で包まれていた。羽毛なのだろうか、とても軽い。
仰向けになる。肌掛けと同色のピローカバーに包まれた枕は、ふたつあった。このベッドは柵付きのベッドより広い。春樹のベッドより広かった。おそらくダブルベッドなのだろう。部屋の隅に置かれたフロアライトの光が、最低限の家具しかない空間を照らしている。マホガニー材の家具と寝具の色が合う、落ち着いた部屋だった。
(さすがの狂犬も、眠るときくらいは人並みの環境にするってことか)
眠れそうにない。春樹は何度も寝返りをうった。携帯電話も、サイドボードの上にある時計も、夜の十一時前を示している。狂犬がソファで眠るとは思えない。奴がベッドに入ってくるまでに眠ってしまいたかった。
リビングが静かになった。いよいよ来る────────
春樹は肌掛けを頭まで被った。
三十分。一時間経っても寝室の扉はひらかなかった。
玄関ドアの音はしなかったはずだ。長風呂でもしているのだろうか。狂犬は外見だけはいい。あの見てくれを保つには、人知れぬ苦労があるのかもしれない。
携帯電話をひらいた。新田が送ってくれたシバザクラの写真を見る。咲いたら白い花が校庭の一部を飾る。春樹はガーデニングすらしたことがなかった。生まれて初めて植えた花を、新田と見たい。
ゴトン、という鈍い音がした。リビングから聞こえた気がする。
音はそれきりしなくなり、春樹の寝返りが再開される。
「ああっ、もう!」
頭を掻きむしりながら起き上がった。
静かすぎるし枕は違うし、気に入らない奴の巣だしで、まんじりともできそうにない。
死んだほうがましだと思ったことをされ、体はまいっている。それでも今は少ししか痛まないし、出血もない。拷問部屋にいるわけではないので怖くはない。
普段から寝付きは悪くないだけに、人が眠る時間に眠れないというのはストレスになりそうだった。
先ほどの物音も気になる。生活音なら、何かもう少し音が続くはずだ。
春樹は寝室の扉をあけた。
「高岡さん……?」
フットライトだけが光るリビングで、人の寝息がしていた。春樹は足もとを照らす灯りに沿って歩いた。カウンターで仕切られたキッチン脇のスイッチを全部ONにする。部屋全体が明るくなった。
カウチソファの上で、高岡が眠っていた。
服を着たままだ。片手がソファの端からずり落ちている。リビングの床には、空になったワインのフルボトルが転がっていた。ゴトンという音はボトルが落ちた音だったらしい。
高岡は夜の仕事をしている。SMクラブ経営者だ。日付が変わる程度の時間では寝付けないのかもしれない。寝酒をあおっていたのだろう。
とにかく寝室のベッドにこいつが入ってこないのは、歓迎すべきことだ。春樹は灯りを消そうとした。
ソファに眠る狂犬が微動だにしない。春樹にかけたジャケットは、キッチンカウンターのスツールにかけられている。
つまり高岡には、何もかかっていない。部屋の空調は切られていた。
ソファ近くの床を手で触ってみる。冷たかった。床暖房も切ったようだ。
「……高岡さん」
高岡の寝顔は初めて見た。目をとじたときと同じで、若く見える。
突然目をあいたらどうしようと思ったが、春樹は高岡を見下ろしてみた。狂犬を立ったまま見下ろすなど、そうある機会ではない。
高い鼻梁とはっきりした骨格が、どこか外国人に似ている。眉尻と目尻は男らしく上がっていて、眠っていても何かに警戒しているような感じがした。一番の特徴である動物に似た瞳が隠されていると、だれもこの男の自宅に拷問部屋があるなどとは思うまい。
要するに、高岡は美しい男だった。
春樹はソファから落ちた高岡の手に触れた。アルコールを飲んだ割には冷えている。起きないようにと願いながら、冷えた手をソファの上に戻す。高岡の眉根がひくついた。春樹の頬も引きつる。高岡の寝息は規則正しいままで、春樹は胸を撫で下ろした。
ワインボトルを拾い、キッチンに持っていく。少し、いや、多いに迷ったが、スツールにかかるジャケットを手に取った。灯りのスイッチを切る。
自分でもどうかしていると思う。春樹の体内に手をいれるという暴挙をした、張本人だ。車の運転は非常識だし、商品を自宅に泊めても何も食べさせず、自分はワインを飲んで眠りこけている。
こんな男、風邪をひいても知ったことではない。
(風邪ひいて機嫌悪くして、八つ当たりされたらかなわない。それだけだ)
春樹は高岡にジャケットをかけた。横を向いて眠る高岡の目が、ひらいた。
「優しいな。仔犬ちゃん」
「や……! やめて、やめ」
ソファに引きずり倒された。高岡が体をずらし、後ろから手が回される。
性的なことをされるとあきらめかけたが、ただ抱きすくめられるだけだった。
「俺に構う前に自分のことだ。こんな格好でベッドから出るな」
着替えは下着だけでいいと言われたので、春樹が身につけているのは半袖のTシャツとトランクスだけだ。
高岡にかけたジャケットが春樹の腹の上に乗る。
「わ、わかりました。ベッドに戻るから離し、て」
寝室に戻っていいと思ったため、虚をつかれた。半身の姿勢にさせられると同時にキスをされる。
この男によく似合う、深くて強引なキスだった。アルコールの臭いがしない。歯磨き粉らしいミントと、いつもの煙草の香りがかすかにするだけだ。春樹が目をひらく。高岡が唇を離す。暗い中でも笑っているのがわかった。
「寝たふりをしてたんですか。わざとワインの空瓶を落としたんですか?」
「商品を泊めているのにアルコールは摂取しない」
「それならどうして瓶、を」
言葉をふさぐように唇が重なった。不意討ちのキスより深くない。気持ちとは正反対に脱力してしまう。
「うう、ん……」
春樹の手が落ち着くところを探す。体に潜む熱が手を押し上げ、さ迷わせる。心では触れたくないと思うのに、高岡の腕から脇腹、背中へと移動していく。広い背中の筋肉に触れた。キスの感覚を抑えるために抱きしめると、高岡にも同じことをされた。ジャケットが床に落ちた。
官能的な動作で唇が離れた。一度離れた唇がまた戻り、ふたたび離れてすぐに戻る。
外国映画で見るような、恋人同士のキスに似ていた。音をたてて唇が離れ、耳の後ろの匂いを嗅がれた。
「子どもの匂いだな」
ささやく高岡の声にあざけりがない。不思議に思い、背中に触れた手を離す。
高岡が春樹から身を引いてジャケットを拾う。春樹の肩にジャケットがかけられた。
「寂しかったからボトルを落とした」
今度の言葉は笑みを含んでいた。高岡はソファから立ち上がり、寝室に向かった。
「仔犬ちゃんに来てほしくて、落としてみた。寝るぞ」
「え……」
「俺とふたりきりがいいと言っただろう?」
あれは交通事故に巻き込まれたくなかったからだ。頭の中で狂犬への悪態が行進する。
春樹は眉間のしわを隠すことなく寝室に入った。
次のページへ