Cufflinks
第一話・焔 第一章・4
波打ち際に寝そべると、こんな感じなのかもしれない。
あるいは苦しみのない乗り物酔いか。
春樹はベッドの上で横向きに寝ていた。顔の前にある右手には、キキョウの紫があった。
「修一」
目が完全にひらかれた。自分の体を見る。手枷足枷、太腿にはめられていた枷、それを首から吊っていたベルト、手足をベッドにつないだ鎖がすべて消えていた。
「修一、どこ?」
体を起こしてみる。頭がふわふわする。
ベッドは足側の一辺以外は柵があるし、壁にも変な道具がかかっている。
時計のない無機質な部屋が、ここは狂犬の拷問部屋であると主張していた。
めまいがして手をついた。指の先に何かが当たる。春樹の携帯電話だった。
(どうして……寝室の、学習机の上に置かれたはず)
考えるのはやめた。電源を入れる。
新田の番号を表示させる前に、未着の写真付きメールが届いた。差出人は新田だった。
「今度登校したときは、きれいに咲いていそうだ。」の一文に添えられた写真は、シバザクラの蕾(つぼみ)たちだった。
校庭に咲く花で、春樹が一番心惹かれる草花だった。目立つ花ではない。小さくて可憐な、白とピンクの花が石垣に沿って這うように伸びるだけだ。手をつなぐように陣地を広げて咲く姿が頼もしく思え、登校すると必ず様子を見る。
新田にシバザクラが一番好きだと言ったら、小遣いで苗を買ってきてくれた。新田と一緒に苗を植え、園芸の話をたくさんした。いつもは花よりも新田に関心を抱く春樹も、あのときは純粋に開花が楽しみだった。
四月中旬に植えた苗の姿を、春樹のためにこうして送ってきてくれたのだ。
「しゅ……いち……」
涙の粒がシバザクラの写真に落ちた。春樹は携帯電話をとじた。
今は話せない。すべてを吐露し、助けてと叫ぶに決まっている。
「新田と話さないのか。体は痛むか?」
いつ扉をあけたのか、高岡が戸口に立っていた。
体の中の痛みには芯があったが、鈍いものだった。
それよりも、意味のわからない行為を強要された精神が爆発寸前だった。
「体、体さえ無事なら、何をしてもいいと……?」
扉にもたれる高岡と視線がぶつかる。ここは高岡の陣地で、武器も山のようにある。激昂させたら思うさま罰を与えられるだろう。
だが、人には罰でも屈服させることのできない尊厳がある。
男を相手にした売春をしろと言われた金曜から、繰り返し傷付けられたものはそれだった。
「僕はあんたのものじゃない。手を入れる意味なんて知らないけど、あんたはいつもこうやって商品を服従させてるの? 痛いことをして、怖がらせて! こんなことで人を自由にできると思うなんて、おかしいよ!!」
高岡が後ろ手で扉をしめた。カットソーを脱いで床に放る。上半身裸の高岡が春樹の両手首をつかむ。怒っているのは確実だが、百パーセントの怒りが春樹に向けられているのではない気がした。
冷たい目の光に、鞭を振るったときのものが感じられない。
「そうだ春樹。俺はおかしい」
春樹の体がうつ伏せにされる。ベルトのバックルを外し、ジッパーを下ろす音がした。腰が抱えられる。背中を押されて胸がベッドにつく。夢の中と同じ姿だった。
「金でお前を買う客も、斡旋する社もおかしい。それを忘れるな」
「やめて、やめてよっ! わからないくせに! 鞭で打たれた惨めな自分を思い出して、学校で吐くときの苦しさなんて。テレビはあっても、だれもいない夜の寂しさなんて!」
「確かに俺にはわからない」
後ろの入り口に高岡のものが押し当てられた。手を入れられて弛緩しているのか、穴の中にローションが残っているのか、少しの抵抗で硬いものを呑み込んでいく。
頭が沸騰したままのためか、焔の気配もしなかった。
「寂しければ新田と会えばいい。その前に新田にふさわしい存在になれるよう、努力も必要だ。お前の恋は何だ? 新田から与えてもらうばかりか」
「やめろ! うるさい! やめろッ……!!」
雄の部分がすべて入った。喉を焼く熱波も脊椎を舐める炎も、遠くからこちらを伺っているだけで近づいてこない。
今までのセックスとは何かが違った。
「や、めろ……いや、だ」
高岡の動きは単純だった。ゆっくり入り、同じように抜く。弱いところに執着したり焦らしたり突き上げたり、そういうことは一切しない。乱暴にされているのではないが、人として扱われていないと感じる。
夢と同じ体位は、動物の交尾を連想させた。
「はっ、あ……」
「いいか。春樹」
「うっ……あ。い、い……」
初めてだった。
焔が寄り付かない、普通の、肉体だけで感じる後ろめたさ。言い訳のできない快楽だ。
これまでは焔のせいにできた。どんなことを口走っても許されるという気持ちがあった。
今は入ってきた高岡をきつく抱擁するようにつかまえ、去っていく高岡に絡み付いて追いすがる。
特に弱点を攻められていないのに春樹の中心はそそり立ち、シーツにしずくを垂らしていた。
女の子のような声こそ漏れないが、吐息に粘り気がある。ああ、という気だるい声が、息を吐く度に口から出ていく。
自分のものを抜くときに絡む粘膜がいいのか、高岡が時折息を乱す。
その息づかいを聞き、穴の内壁はさらに収縮した。芯のある痛みと快感が共存する。
「あ……う、ああ」
春樹は片手でベッドの柵をつかみ、片手でシーツをつかんだ。
尻を上げ、高岡のものを絞り上げるように腰を振った。背中が弓なりに反ってくる。
手を入れられたのに、その野蛮なことをした男との行為を気持ちいいと思う。
おかしいのは自分かもしれない。
「ぼく、は……なの……?」
「わかるように言え」
「僕はこれが好き、なの? 男との、これが」
高岡に肩をつかまれた。こねるように突かれる。ゆっくりと同じ動きを繰り返され、喉が反り返った。
「あ! いく! い……く!」
春樹の飛沫がシーツに散る。
数回大きく出し入れした高岡が硬さを失わない状態のまま抜き、春樹の腰の上に放出した。
動物の交尾そのもののことをして、体の外に精を放たれた。汚されたのは紛れもない事実だが、涙は出ない。
感じるのは、強いいきどおりだけだった。
春樹はベッドに肘をつき、肩で息をした。こんなところで一泊などしたくない。家に帰してほしい。
「男と寝るのが好きだから、何だ?」
カットソーを拾う高岡は冷淡な表情だった。怒りは消えているようだが、人を寄せ付けないオーラが盛大に出ている。
「お前の愚かなところはそこだ。男と、ではない。だれと、だ。相手が男であっても人生を賭けると決めたらそれは愛だ。お前がこんなことをされるのはだれのためだ。腹を括らずに体を売れば、残るのは後悔だけだぞ」
この男の思考と割り切りは、どこから来るのだろう。
腰から狂犬の精液が垂れる。高岡が足側のシーツを剥ぎ、端を春樹の膝にかける。
「頭がはっきりしているときくらい自分で片付けろ。シーツは洗濯機に入れておけ。片付けが終わったら隣の部屋に入って休め。俺の寝室だが文句を言うな」
「帰りたい……家に帰りたい」
「一泊すると言ったはずだ」高岡が扉をあけた。戸口で立ちどまる。
「お前は商品だ。奴隷ではない。プライドを捨てるな」
高岡がしめた扉を、春樹はまじまじと見た。
人の尊厳を散々踏みにじっておいて、プライドを捨てるなだと?
「狂犬! 変態! 鬼! 死ねっ! お前なんか死んじまえッ!!」
死ね、を繰り返しながらシーツで体を拭いた。防音対策がされているのを幸いに、想像するだけにしていた悪態をすべて口に出した。シーツを丸めてキキョウのハンドタオルと携帯電話を手にしたころには語彙も尽きた。
「何が躾だ。暴力でしか従わせることができないなんて、三流だ」
春樹はおぞましい部屋の扉をあけた。リビングに高岡の姿はなかった。寝室を片付けているのか、拷問部屋の隣の部屋から物音がする。
高岡に逆らってリビングのソファで寝ると申し出ることも考えたが、やめた。
罰の問題ではない。春樹が商品だと言ったのは高岡だ。商品なら商品らしく扱ってもらおう。どうせこの隙に逃げ帰っても、連れ戻されるのが関の山だ。
シーツを洗濯機に投げ込む。狂犬に汚された体を隅々まで洗った。
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