Cufflinks

第一話・焔 第一章・3


 高岡に連れられてきた店は、小さなフレンチレストランだった。
 都心から少し離れたところに、小規模な飲食店が集まる入り組んだ路地がある。レストランは路地の中ほどにあった。
 ラストオーダー一時間前の店内は賑やかだった。窓際の席に案内される。テーブル席は少なく、大きなカウンターで歓談をしている人が多い。外国人の客が目立った。
 この手の店は静かで窮屈なものだと思っていた春樹にとって、意外な雰囲気だった。
 意外なことはまだある。高岡がタクシーを使った。おとといの金曜の夜からきょうの夜まで仕事だと言っていたので、春樹のマンションにも車で来ているとばかり思っていた。
「俺の顔に何かついているか」
 食前酒を飲む高岡に言われ、春樹は首をふるふると横に振った。
「言いたいことがあるなら言いなさい」
「……事故でも、起こしたんですか」
「何?」
「車に乗らないから……とうとう交通事故を起こしたのかと思いました」
 前菜が運ばれた。給仕人が下がるなり、高岡が横を向いて笑う。目のあたりを軽く覆っている。
 この男は笑い上戸なのかもしれない。
「行きも帰りも客が用意した車だ。都内に入ってからお前の部屋まではタクシーで移動した。食べなさい」
「いただきます」
 習慣で手を合わせてしまう。高岡を見た。こちらを気にしている様子はない。
 前菜はスモークサーモンをペースト状にしてパンの上に乗せたものだった。それにたっぷりの野菜サラダが添えられている。手で食べてもいいと言うので安心した。かなりのボリュームで、味も良かった。前菜の前に出された突き出しに当たるものも、前菜の後のスープも、どれも気取った感じがない。一対のナイフとフォークを使い続けるスタイルも、春樹にとって馴染みやすかった。
「どうして僕の部屋までタクシーなんですか? 送ってもらわなかったんですか?」
 スープをたいらげた春樹が尋ねた。ワインを飲む高岡の手がとまる。
 不吉な予感がした。春樹の背筋が伸びる。別段強い疑問でもなかった。何の気なしに聞いただけだ。高岡がいくら非常識な男でも、こんなところで殴るわけないだろう。
 楽観的な予測は外れるのが世の常だ。高岡の手が春樹の頬に伸び、つねり上げられた。給仕人が皿を下げにきたのもお構いなしの行動だった。
「お前は見ず知らずの者に自宅の所在地を知られたいのか」
「ひ、ひいへ」
「よくもまあ次から次へと愚問をこしらえるな。お前のここは」
 高岡が頬から離した手で春樹の頭を小突く。春樹は頭と頬をさすり、下を向いた。愚問に答えるのがお前の仕事だろう、と言えたらどんなにいいだろう。何か教えることがあってここに来たのではないのか。さっさと教えて解放してほしい。
「これを食べて少しは考えてくれると助かるのだが」
 うつむいていた春樹の前に骨付きの肉が置かれる。炒めた野菜が添えられた肉は子羊だと、給仕人は言った。
「仔犬ちゃんは育ち盛りだ。たくさん食べろ」
 春樹はぎょっとして高岡を見た。まだ給仕人がそばにいるのに、人を犬呼ばわりして平気なのか。ハーフボトルで置かれていたワインが高岡のグラスに注がれる。赤い液体をサービスする給仕人は顔色ひとつ変えない。仕事だからなのか、高岡のこういった言動に慣れているのか。
 高岡の皿にある鴨肉は、春樹の肉よりも大きな塊だった。高岡は丸ごと一本の骨付き腿肉にナイフを入れていく。春樹はもう一度自分の皿に目を落とした。二枚の肉の端部分にまで、しっかり骨が付いている。骨に沿って切ればいいのだろうと思ったが、思いのほか滑る。大きな音がしそうだった。
「ナイフレストに食器を置きなさい」
 春樹は銀色の小さな台に、ナイフとフォークを置いた。高岡が春樹の皿を取って自分の前に置く。苦もなく肉を外していく高岡は無表情だ。春樹は顔を覆いたくなった。
(テーブルマナーを教えるために連れてきたのかよ)
 春樹の前にふたたび皿が置かれる。きれいに骨と肉が分離していた。高岡は何事もなかったように肉を口に運ぶ。春樹も小さな音をたてつつ食べた。子羊の肉は甘くてクセもなく味は良かったが、早く帰りたい気分だった。
「客と食事をするとしたら、もう少し格のある店になることが多い。そういった店ではもっと食べやすい状態で供される。さて仔犬ちゃん。俺が食事の作法にも口を出す理由は何だと思う」
「行儀が悪いのはだめだから、ですか?」
 高岡の、底光りをたたえた目がこちらを向く。春樹の両手はすでに頭の上にあった。
「その学習能力の無さには敬服する。理由を聞こうか」
「ここで鞭で打たれることはないって思ったから……」
 両手がはたかれ、頭を拳骨で殴られた。
「愚問製造機は実によく働く。罰の有無で熟考しないのか」
「……痛いのはいやです……」
「肉が切れない程度のことで落ち込んで下ばかり向く仔犬ちゃんだ。これでも最小限の罰にしている。ヒントは与えたぞ。考えろ」
 春樹の視界にレモン色の物体が入る。目のピントが合い、それがシャーベットだとわかった。高岡の前にはシャーベットの代わりに数種類のチーズがある。ワインボトルは空になっていた。
「考えるのを中断してもいいので食べろ。食べられるときに食べるのも仕事のうちだ」
 春樹はシャーベットを食べた。おいしいことはおいしいが、答えが見つからない。皿の上にスプーンを置く音が空しかった。
 マナーそのものを問題にしているなら、春樹の客層に合わせた店に連れていくだろう。箸使いにしてもそうだ。仕事に不可欠なら、高岡のことだ。鞭打ってでも矯正するに違いない。
 何を問題視しているのだろう。
 春樹は高岡を観察した。助けを求めて上目遣いに見るのではない。高岡はごく自然にナイフとフォークを使っている。音などたてないし、口に入れる姿も醜くなく、何よりおいしそうに見えた。
(こいつは……僕と食事して、楽しいのかな)
 無意識に小首をかしげていた春樹に、低い声がかけられた。
「降参するか」
「しません」
 即答していた。考えなしの自分の発言にめまいがしそうになる。
 春樹は高岡以外の人間も見てみた。男女のカップルや老夫婦、陽気な外国人たち。カウンター席で楽しそうにアルコールを飲むのは、外国人客がほとんどだった。ムール貝やエビ、豆などをフォークを自在に使い、手も使って気軽に食べている。笑顔が溢れていた。


次のページへ