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第一話・焔 第一章・3
西の空が夕陽で染まる。
春樹は西日を反射する建物を見上げた。春樹が暮らすマンションだ。都内に建ち、ワンフロアに二邸から四邸しかない。春樹は四邸のうちのひと部屋で暮らしている。豊かな採光と天然木のフローリング、白大理石が飾る玄関から廊下。間取りもゆったりしていた。
春樹が自分の力で住むには、体を売って当然の環境なのかもしれない。
エレベーターに乗る。春樹はハンドタオルを取り出した。キキョウの刺繍にキスをする。
『変わらぬ愛』
新田と一緒にいるためなら何でもする。
この気持ちだけは変えようがなかった。
鍵をあけた瞬間、現実に引き戻された。
玄関に紳士靴がある。外国製だとひと目でわかる。上質なのだろうがキザな靴をはき、かつ自由にここに出入りできる男はあいつしかいない。
「帰ったら何と言う?」
ダイニングテーブルのあたりから高岡の声がした。テーブルの脇に新聞が入った袋がある。新田がきのう持ってきてくれたものだ。春樹は飛ぶようにリビングに入った。
「ただいま……帰りました」
「よろしい。冷蔵庫をあけて冷たい飲み物を出しなさい」
「はい、あの、オレンジジュースか水しかないですけど」
「俺が飲むのではない」
春樹も特に喉が渇いているわけではないが、こんなことで逆らって罰をくらうのは嫌だ。春樹はミネラルウオーターを出してコップに注いだ。高岡を盗み見る。高岡は新聞を広げ、何やら印をつけている。一紙終えるとまた一紙、同じ作業を繰り返す。
立ったまま飲むのも変な気がしたので、恐る恐る椅子に腰を下ろした。高岡は春樹に目もくれない。伏し目になっている高岡のまつ毛は濃くて長かった。
腹立たしいが、この狂犬は端正な顔立ちをしている。艶のある黒髪は前髪にわずかな癖があり、色気みたいなものがある。車や身につけるもののセンスもいい。新田に自慢したオー何とかの香水も、確かにいい香りで似合っていると思う。T大合格経験があり、知性もそれなりだ。これで思考が正常なら問題ない。
春樹は目の前のSMクラブ経営者に対し、頭の中で思いつく限りの悪態を並べてみた。
急に高岡が顔を上げる。飲んでいた水が気管に入りそうになった。
「新田からか」
「は、はい?」
「新聞だ。全国紙と経済紙が入っていた。もう目を通したか?」
「いいえ」
そうだろうな、と言いながら、高岡は全国紙と経済紙の両方をひらいて春樹に見せた。全国紙の紙面には一重丸と二重丸の印があり、経済紙のほうは二重丸だけだ。
「全国紙の二重丸と経済紙の二重丸は関連した記事だ。最低限目を通すべき箇所に印をつけた。何故そこが必要なのか考えて読むように」
「はい」
春樹は生返事をした。高岡が鋭い視線を向けたような気がしたが、春樹の目は新聞紙が入っていた紙袋をとらえていた。
どうして新田が持ってきたとわかったのだろう。ソファの横に置いておいた紙袋を見つけたとき、高岡はすぐに見抜いたのだろうか。
春樹の頭が丸めた新聞紙で叩かれた。痛くはないが、恐怖で全身が凍りつく。
「気のない返事をする余裕があるとはな。何故俺が新田からだと思ったのか、か?」
「はっ、はい」
エスパーですかなどと言える状況ではない。体が強張ってきた。
「紙袋の店名がお前や新田の年頃の少年が好む衣料品店のものだ。お前のクローゼットにはこの店が扱うような服は見当たらない。新田は賢く優しい子だ。新聞も読まないお前を思って持ってきたのだと、すぐに察しがつく。持ってきたのはきょうか?」
「……きのうです」
高岡の目つきが険しくなる。春樹は頭を手でガードして首をすくめた。
「きのうから今まで一紙も見ていないとは天晴れな根性だ。シャワーを浴びて寝室に入っていろ。灯りはつけておけ」
「はい……」
春樹は力なく立ち上がった。コップをすすぎ、浴室に向かう。間違いなく暴力によって犯されるだろう。鞭で打たれないだけましと思うべきなのか。
春樹が寝室に入ってすぐに、シャワーの音がした。春樹は毛布の中で体を縮こませた。
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