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第一話・焔 第一章・3
一階に下りるといい匂いがした。新田が台所に立っている。
「玉子雑炊、嫌いか?」
「好き。え、作ってくれてるの」
「あっためてるだけだ。もう少しかかるから、そっちの居間にいてくれ」
春樹は新田の後ろから台所を覗いた。小ぢんまりとした台所には一応ダイニングテーブルがあるが、トースターや新聞、雑誌、食パンや果物などで埋め尽くされている。冷蔵庫や水屋などで占拠されているため、ここで食事をとることは少ないのかもしれない。
新田の家は二階建ての、少し古い建売住宅だ。春樹が住むマンションよりも学校に近いところにある。
玄関を入るとすぐ二階への階段があり、階段脇には小さなトイレがある。二階は新田の部屋と妹の部屋がひとつずつ。すべてが小さくまとまっていた。白大理石の廊下と広いリビングの春樹のマンションより、家庭という感じがする。
居間は少し広く、太陽の光で明るかった。大きな窓の向こうに庭がある。季節の花が美しく咲いている。直植えの花木、鉢植え、プランターが整理されて並んでいた。
「熱いから鍋には触るなよ。これ敷いてくれ」
新田が座卓の上に鍋敷きを放った。春樹が敷くと、大きな土鍋がその上に乗った。新田が鍋の蓋をあける。大量の湯気と、おいしそうな香りがした。
「すごい! おいしそう」
「あらかたお袋に用意してもらって、あっためて卵入れただけだけどな」
新田が照れながら春樹の分を取り分けた。具だくさんの雑炊に、玉子の黄色が優しい。少し苦手な三つ葉も、きょうはとてもおいしそうに思えた。
新田と向かい合って食べる玉子雑炊は、春樹の心と体をあたためた。春樹の箸はとまることなく、すぐに茶碗が空になった。新田も同じようにたいらげ、二杯目をよそう。新田が春樹から空の茶碗を取り上げた。春樹が好きな玉子を多めによそってくれた。
「……修一。おとといの、学食のことだけど」
「うん」
「心配してくれたのに、逃げてごめんね……」
「あれは逃げたわけじゃないだろ。あんなに具合が悪かったのに、俺がハンバーグなんか食べさせたんだし」
庭から猫の声がした。大きな猫だ。のっしのっしと歩いてくる。
「隣の猫。俺と妹はブッチャーって呼んでる」
「ブッチャー? ほんとは何ていうの?」
「チビ」
実の名とは程遠い体格と風格のチビが、庭の隅で毛づくろいをしている。春樹はおかしくなり、声をたてて笑った。新田も笑う。笑われたのがわかるのか、チビはこちらをひと睨みして庭から出ていった。
「お前が声出して笑うの、久しぶりだな」
新田を見る。大人びた笑顔が、何も言うなと告げていた。
「俺が家族の写真をしまわなかったり、お袋の趣味のこと話したりして、軽蔑するか?」
春樹は首を横に振った。新田を軽蔑するなど、考えたこともない。
新田が箸を進める。春樹も同じペースで食べた。食べ終わると少し咳き込み、新田の優しい微笑みを誘った。
「お前だから待てる。おととい言ってた家のことも、話したくなるまで何も言わなくていい。俺はお前と垣根なく付き合いたいから、ここに来てもらった。俺の家族や生活をお前に隠すのは、変だと思ったから」
「僕だから、待てる……」
「そうだ。好きだから」
春樹は言葉を探した。
抱きついたりキスをしたり、そういうことなら簡単にできる。だが、新田は言葉で気持ちを伝えている。春樹を対等な存在として扱っている。春樹も同じようにしたい。同じように伝えたい。
「キキョウのタオルを修一の部屋でくれたことが、嬉しい」
新田を真っ直ぐ見る。茶色の聡明な瞳が、少しも怖くなかった。
「修一と抱き合えたことも、雑炊をいただいたことも、全部嬉しい。すごく嬉しい」
「春樹!」
春樹は座卓を回り込み、飛びつくように新田にしがみついた。言葉だけで伝えるのは不可能だった。
新田のためなら何でもできる。新田と過ごすためなら、何でも。
「修一と出会えたことが、今までで一番嬉しい」
それ以上は言葉にならなかった。それが春樹の心のすべてだった。
新田に頭を抱かれる。春樹は新田の胸に顔をうずめた。規則正しい鼓動が耳を打つ。
もう一度チビが庭を横切るまで、ふたりはそうしていた。
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