Cufflinks

第一話・焔 第一章・3


 携帯電話よりも財布を持ってくるべきだった。
 自宅マンションから五分ほど歩いたところにある公園のベンチで、春樹は下を向いていた。新田が近づいてくる。両手に缶飲料を持っていた。
「ごめんなさい。来てくれたのにお茶も出さないで、おごってもらうなんて……」
 新田が隣に腰かけても、春樹は顔を上げられずにいた。
 どうしていつもこうなのだろう。
 小さなころから春樹はいつも、だれかの世話になっていた。忘れ物をしたりケガをしたりする度に助けてもらう。いつもどこか間が抜けていて、あらゆることで遅れをとった。
「春樹。ごめんなんて言うな」
「ごめ……」
「言うな。謝るとしたら俺のほうだ。突然家に行ったりしたから」
 春樹は首を横に振り、差し出されたジュースを飲んだ。アイスミルクティーだった。
「おいしい」
「きょう、天気いいしな」
 ベンチの上に新田の手があった。春樹はその手をそっと握った。新田は春樹を見ない。春樹を見ずに、指が互い違いになるように組んでくれた。春樹の鼓動が速くなる。
 新田の横顔は、以前より鋭くなった。頬の肉も薄くなったように思う。春樹のように学生食堂で奇異な行動をとったり吐いたりしないというだけで、苦しんでいるのかもしれない。
 原因は春樹にある。新田に言えない秘密に振り回される姿を、やすやすと晒す春樹に。
(……最低だ)
 春樹は新田の手を握り、尋ねた。
「修一、痩せた?」
 新田が春樹を見た。笑うでもなく、怒るでも、悲しむでもない。兄がいたとしたらこんな顔をするのかもしれない。そんな表情だった。
「どうだろう。体重、量ってないし」
 お前こそ痩せたんじゃないか、と言われると思っていた。新田を直視する。新田の瞳には影がない。澄んだ目に春樹の女顔が映っている。
 きのうの新田とは違う。待つと決めてくれたのだ。自分を殺して待つと。
 学年がひとつ上だというだけで、こんなにも大人になれるものだろうか。

  僕を好きになってくれたから……?

 春樹の靴にゴムボールが当たった。小学校低学年らしき男の子が走ってくる。新田が片手でボールを取り、返してやった。
「ありがとう!」
 と言ったにも関わらず、ボールを返してもらった子が動こうとしない。
「どした?」新田が微笑んで尋ねる。
 男の子がボールを持ったまま、春樹と新田がつないでいる手を指差す。
「お兄ちゃんたち、男どーしで手ぇつないでんの? そっちのお兄ちゃん、女?」
 春樹は顔が真っ赤になるのがわかった。慌てて離そうとする春樹の手が動かない。新田が離そうとしないのだ。
「ふたりとも男だよ。仲良しだから手をつないでる」
 春樹の心臓がとまりそうになった。今、新田の顔を見たら泣いてしまうかもしれない。ボールを空に放りながら走っていく男の子の後姿が、わずかに揺れる。
「春樹。あした時間あるか?」
「え、あ、あります」
「両親、旅行なんだ。妹は部活。家にだれもいない」
「修一……」
「あすの昼頃、迎えにくる。そのときにお前の具合が悪かったら、お前の看病をする。元気なら俺の家に来てもらう」
「しゅ、う」
 唇が重なった。人のいる、公園のベンチで。太陽のある時間に。
 春樹は目をとじた。舌が触れ合う。つないだ手が感情を共有した。
「俺の部屋に来てほしい」
「……はい」
 春樹はうなずき、新田の肩にもたれた。

 『お前次第だ』

 売春をする自分と新田が一緒にいて、新田は汚れないのだろうか。そう高岡に聞いたとき、お前次第だと言われた。
 今、春樹の背中には鞭で打たれた痕がある。もう二度も高岡に抱かれている。信じがたい、淫らな言葉も発した。もう汚れているのだ。
 隣にいる新田は汚れているか? キスをした唇は優しく、目に曇りなどない。
 新田を汚さないためには、どうすれば、どうなればいいのだろう。
 手をつないだまま新田が立ち上がった。
「そろそろ帰ろう。もうすぐ昼だ。家政婦さん、卵焼き作ってたんじゃないか? お前がきのう早退したから、心配して来てくれたんだろう。帰って、腹いっぱい食べろ」
 春樹も立ち上がる。つないだ手を引き、背伸びをした。
「修一、好き。心から」
 キスを交わすふたりに、太陽の光が降り注いだ。


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