Cufflinks
第一話・焔 第一章・3
洗面台に置いたハンドタオルの上に須堂の義指があった。
精巧な作りで、最初に須堂を見たときに欠損に気付かなかった理由がわかった。
春樹は服を着て、おかしなところがないか何度も鏡を見た。情交を証明する跡がないか、ではない。須堂に恥ずかしくない姿かどうかが気になった。
窓辺に立つ須堂は煙草をふかしていた。ロールスクリーンが上げられた窓の外に、ピンク色と紫色の雲が段重ねになっている。昼と夜が交わる時間だった。
「疲れたらここで休んでっていいぜ。何でも好きに頼んでいい。金の心配はすんな」
「ありがとうございます、大丈夫です。須堂さんはこれから帰るんですか?」
須堂がこちらを見る。煙草を灰皿に押し付け、部屋の中央に立つ春樹の頭を撫でた。
「おれは仕事に戻る。水商売関係の物件も扱ってるからな。車は会社にあるから送れねえけど、タクシー呼ぶか?」
春樹は首を横に振った。別れを惜しむ自分に、自分が一番驚いていた。
「どんな事情があるのか知らねえけど、できるだけ早く足を洗え。高岡は売れないと踏んだら引き受けないが、体売るなんてずっとやれる仕事じゃねえ。学校の勉強もちゃんとして、将来を考えるんだ」
春樹は須堂を見た。自分の眉間にしわが寄るのがわかる。
「高岡さんは、今の僕をお客様の前に出すのは我慢ならないって言ってます」
須堂は大きな声で笑った。春樹の肩を力強く揺さぶる。
「あいつとはケツが青いころからの仲だ。間違いねーよ」
春樹は義指をはめ終えた須堂に抱きつき、うながされるままホテルの部屋を出た。
エレベーターに乗っている間も、ホテルの外に出てからも、わずかに残る火照りが消えないでほしいと願った。
須堂は終始、何かをする前に春樹に言葉で知らせた。その度に春樹は安心し、理解し、酔うことができた。体重をかけられることもなかった。体位を変えるときは太い腕で春樹の体を支えられ、急かされることもなかった。
須堂の体温も、炎に遮られることなく伝わってきた。恐怖も混乱もなかった。
春樹は新宿駅に向かう道すがら、携帯電話をひらいた。
携帯電話と財布は、ホテルに直結する地下鉄駅のコインロッカーに入れておいた。素性のわからない男と会うのに、身につけていたくないと思ったからだ。
着信履歴を見る。届いていないメールがないか、メールの問い合わせもしてみる。両方とも、何もなかった。
新田からの連絡がない。新田の番号を画面に表示させる。通話ボタンを押すべき指先が動かない。
嗅ぎ慣れた香りがして、携帯電話に影が落ちた。
「仔犬ちゃん。前を見て歩け」
聞きたくない声がした。春樹は携帯電話をとじて声の主を見る。
ラフなスーツを着た天敵が、いつもの嘲笑を浮かべて立っていた。
「逃げないように見張ってたんですか、高岡さん」
「人聞きの悪いことを言うな。出勤途中だ」
「須堂さんは優しかったです」
「そうか」
春樹は並んで歩く高岡を見上げた。
“そうか”? それだけなのか?
無駄な期待をする自分を叱咤するように歩を速めた。しかし高岡も同じペースで歩く。
脚の長さも体力も違う高岡を振り切るには、走っても無理だろう。春樹は歩みを元の速さに戻した。
「あきらめが早いな」
予想どおりの言葉だった。春樹はひたすら歩いた。
「あすの夕方、自宅まで迎えにいく。一泊するのであさってまで予定を入れるな」
「一泊? だれとですか?」
「俺とに決まっているだろう」
春樹は足をとめて高岡を見た。ピンクと紫が去り、徐々に濃い青が占めていく空を背に、背の高い狂犬の目が光っていた。光る目が伏せられる。ライターの火が苦笑する高岡の顔を照らした。
「何て顔をしている」高岡が春樹の頬をぺちぺちと叩いた。
「寄り道をせずに帰って体を休めろ。食事も忘れずにとるように」
春樹は数秒間高岡の背中を見ていたが、次の瞬間には走って追いかけていた。
足音に気付いたのか、高岡が振り返る。
「須堂さんの奥様は僕と同じ、焔がある人だそうです。だから、だから須堂さんに会うようにしたんですか?」
高岡は春樹を見るでもなく、往来に向かって煙を吐いた。白煙がたなびく。
「新聞は」
「えっ?」
「新聞を読んだのかと聞いている」
高岡特有の話し方が、春樹の反抗心に火をつけた。
「読んだけど、印の意味がわかりませんでしたっ」
「ではわかるまで読むように」
高岡が春樹に背を向けた。語気を強めて答えた春樹をたしなめることもしなかった。
数歩進んだ高岡が振り返り、唇の端を上げる。
「ポケットの少ない服を着てみたのか、仔犬ちゃん。お座りができたというところだな」
笑みを残したまま高岡が去る。春樹は回れ右をした。
離れるふたりの靴音が雑踏に消えても、春樹の鼓動は怒りのリズムを刻んだ。
< 第一章・4へ続く >
【 あとがき 】
読んでいただき、ありがとうございました! 続きは第1章・4のupまでお待ちください。
黄金週間楽しかったねお疲れ様ということで、少しボリュームアップの巻でございます。
ようやく春樹と新田がB(古っ!)までいきましたー。このふたりを書いているときは本当に楽しいです。
高岡の腐れ縁・須堂にはモデルがいます。ずーっと後でupする予定の番外編や本編の第3章以降にも
ちょこっと出てくる予定です。須堂姓もよく使うので、他で見られて気を悪くされたら申し訳ありません。
須堂夫妻は浮気公認。モラルがなくてすみません。(今さら何をって感じですね)
今回春樹と高岡が食事をしたレストランは中部地方に実在していたのですが、お引越ししてしまいました(泣)
鴨とクレープシュゼットが絶品。チョコのサーブはありません。
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