Cufflinks

第一話・焔 第一章・3



  シャワーの湯気だけが隠す男の体に──背中に不動明王がある。

(騙された……!!)
 リクライニングチェアにつまずいた。つけっぱなしになっているテレビの前を通る。
 ライティングデスクの端、部屋の入り口に近いほうに立つ。ここなら浴室にいる男からは死角のはずだ。胸を押さえる。
 又貸しに気をつけろ、用心を重ねろと言っておいて、こんな手段で小遣い稼ぎをするのか。高岡なら、あの狂犬ならやりかねない。
 どうする。どう逃げる。逃げるだけならできそうだ。入り口ドアはここから数メートル先だ。
(逃げ切ることが──できるのか)
 春樹は息をとめた。鞭を持つ高岡の姿がよみがえる。
 高岡は春樹の部屋の鍵を持っている。報復は容易だ。あいつにはあらゆることを知られている。自宅の住所、自宅の電話番号、携帯電話の番号、学校、交友関係。
 高岡は新田を見ている。会話もした。新田に何かされたら……!
 浴室兼洗面所の扉があいた。
「何してんだボーヤ。腹でも痛いのか?」
 いつの間にかうずくまっていた春樹に、腰にタオルを巻いた男が声をかけた。こちらを見下ろしている。
 体が大きい。高岡よりひと回りは大きい。身長は百九十センチを超えていそうだ。
 思考とは無関係に入り口に突進した。首根っこがつかまれた。そのままクローゼットに背中を押し付けられる。
「いやだっ! 話が違う! だれか助けてッ」
 裏返った声が男の失笑を買った。春樹の顔から血の気が引く。
「心配すんなっての。痛くしねえから」
 男の左手が春樹の頬をつかむ。春樹は短い悲鳴をあげた。男がにやりと笑う。
「そりゃ無理だよな。だれでもビビるわ。おれの左手の指、何本だ?」
「さ、さ、三……本」
「正解。じゃあこっちは?」
 春樹の目の前で男が右手を振ってみせた。小指が欠落している。
「よんほん……」
 ご名答! と言いながら、その右手が春樹の頭を撫でた。大きな分厚い手は、暴力的な動きを一切しなかった。
 春樹の頬から左手が離れる。男はクローゼットの扉に両手をつき、背をかがめて春樹に微笑みかけた。
「こう見えておれはカタギだ。汚い世界との縁はすっぱり切った。お前、高校生か? 何年生だ?」
「い、いち、一年、生」
「十六で一年? 四月生まれか」
 春樹は首を縦に振った。もう声が出そうにない。男は「ふーん」と言って春樹のジャケットに手をかけた。
「ままま待ってっ! じっ、自分で脱ぎますっ」
 だれを信じていいのかわからない。高岡は当然怪しいし、この男にしてもそうだ。カタギなどと口ではいくらでも言える。
 春樹は体からパキパキと音がしそうなほど、ぎごちなくジャケットを脱いだ。男が笑いながらクローゼットの扉をあける。感謝の意味で頭を下げたら、あいていないほうの扉の角で前頭部を打った。
「そんなガッチガチじゃ突っ込むほうも大変だ。来な。何か飲めよ」
 男がタオル一枚で部屋の奥に行く。ライティングデスクの下にある冷蔵庫をあけて中を見ている。春樹はジャケットだけをハンガーにかけて男に近づいていった。男がベッドを指し示すので、ベッドの端に浅く腰かける。
「何がいい? オレンジジュースとリンゴジュースとコーラがあるぞ。あとはウーロン茶と水か。ポットがあるからあったかいのでもいいぞ。ビールはまずいよな」
「あ、あのっ、自分で選びます」
 冷蔵庫を覗き込んでいた男がゆっくりと春樹を見た。心臓が凍る気がした。
「何とっぽいこと言ってんだ。あのばかに何か言われてンのか?」
 あのばかとは高岡のことだろう。春樹はシャツの前を手でわしづかんだ。
「じ、自分のことは自分でするように、って。あの……とっぽいって……?」
「生意気ってことだ」
 男はミニペットボトルを春樹に放った。狙いよく春樹の腿の上に落ちる。
「ボーヤ。おれは客じゃねえ。何か勘違いしてねえか?」
 男が冷蔵庫を足で蹴ってしめる。ライティングデスクの隅にあるメモに、ボールペンで何か書いていく。メモ用紙が一枚ちぎられ、春樹に手渡された。
「おれの名前と会社の番号。しがない不動産仲介屋だ。安心材料としちゃ頼りねえだろうが、名刺代わりに持っときな」
 メモには男性名と都内の局番で始まる電話番号が書かれてあった。きれいな字だった。
「須堂……智輝、さん」
「そ。まだ風呂途中だから浴びてくるわ。お前も来いよ。頭打つなよ」
 須堂は浴室に戻っていった。春樹はペットボトルの蓋をあけた。冷えたミネラルウオーターが体内に流れ込む。干上がりかけていた喉が少し落ち着いた。
 スドウトモキが安全な人物かどうか、考えてもわかるものではない。
 一度は普通ではない世界にいたのだ。そんな男に体を預けるのは怖いに決まっている。

 『あいつは優しい。お前なら必ず何かを得る』

 高岡による小遣い稼ぎの可能性がゼロになったわけではない。だが、もう逃げるわけにはいかない。
 春樹はクローゼットに脱いだ服を入れ、浴室に入った。


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