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第一話・焔 第一章・3


 翌朝、春樹は走って校門をくぐった。
 新田とすれ違い、寝坊したと詫びた。竹ボウキを持つ新田は、笑顔で春樹を許した。朝の校庭掃除は新田の日課になっている。春樹も自主的に手伝うが、毎日ではなかった。目覚まし時計をとめてしまう日もあるためだ。
 春樹は昨夜、怒りにまかせて新聞を読んだ。高岡がつけた印の意味はわからなかった。慣れない作業は非常に深い睡眠をもたらした。
 きょうは四月最後の月曜日だ。月曜は本来ならクラブ活動がある。新田と共に園芸作業ができる日だ。
 教師や講師を対象とした防犯訓練をするために午前中のみの授業となると、新田が持ってきてくれた学級プリントに書いてあった。授業が終われば生徒は全員、強制的に下校しなくてはならない。しかし植物は生きている。新田は朝の校庭掃除をして花の手入れもしたのだ。ひとりで。
 春樹は新田の後ろ姿を目で追った。新田は用具倉庫に向かっていく。
 今すぐ新田を抱きしめたい。そしてできるなら、ふたりで逃げてしまいたい。
 男とホテルで会ってセックスをする。どんな素性の男かわからない。昼間から名前も知らない男と寝るのだ。
 春樹は教室に入った。級友の森本たちと挨拶をして席に座る。
(まぶしいと思うな。自分を奴隷だなどと思うな)
 何のために男相手の売春をするのだ。新田と親密に過ごし、学校生活と私生活を維持するためではないのか。自分から新田や学校を遠ざける理由などない。
 一時限目で使う教科書を出す。春樹は授業に集中することだけを考えた。


 高岡から指定されたホテルはすぐにわかった。都庁を間近に臨んでいる。
 春樹はメインロビーを横切り、トイレに入った。個室に入る。高岡に鞭で打たれた日、奴が回収しなかった一万円札を出す。小さくたたんで靴の中敷の下に入れた。
 靴の中まで見る客もいると高岡は言った。今から会う男は客ではないが、緊急避難用にこうしておいてもいいだろう。持っていても使う気になれない金だ。
 個室から出て手を洗う。春樹は鏡を見た。薄い小麦色の肌が、気のせいか青白く見える。一度帰宅して選んだ服は、極力ポケットの少ないものにした。他人に衣類を探られないような方法は、これくらいしか思いつかない。
 シャツの襟を正す。濃紺のジャケットもグレーのコットンパンツも汚れなどないか確認する。
 しっかりしろと、鏡の中の自分に言う。
 春樹はエレベーターに向かった。


 ホテルの二十階以上に位置する部屋に入ることは、生まれて初めてだった。幅の広い廊下も木目調のドアも、春樹の身をすくませることはあっても浮き立たせることはない。
 春樹はドアの横にある呼び鈴を押した。新聞受けまで設置してある。
 木目の扉の向こうから「おう来たか!」という、大きな声がした。電話で聞いたときと同じ、野太く快活な声だった。
 ドアがあいた。春樹は目をしばたかせた。
 大柄な男が歯ブラシを咥えて立っている。
 腕をつかまれて室内に引き入れられた。乱暴ではないが恐ろしく力が強い。男がジェスチャーで部屋の奥に行けと指示をする。
 広い部屋だった。天井が高い。入ってすぐ右がクローゼットとトイレ、洗面台、浴室。浴室の向こうに巨大なベッドがひとつある。ベッド側から見る浴室は洗面台を挟んでトイレまでガラス張りになっており、洗面台で男が歯を磨いている。
 春樹は部屋の中央に立った。ベッドの足もと側にある液晶テレビが大きい。テレビが乗るライティングデスクも大きかった。部屋の奥行きの、三分の一は占めている。
 デスクの上に皿があった。トーストしたパンを三段に重ねたサンドイッチとフライドポテト、少しのサラダがある。サンドイッチがひと切れ無くなっているようだ。歯を磨く男が食べたのだろう。
 デスクの前にある椅子の背に、スーツの上がかけられている。大きな上着だった。高岡のものより一サイズ、もしかしたら二サイズ上なのかもしれない。
 春樹は洗面所を見た。男の姿がない。クローゼットの前に立つ男がネクタイを外す。
「腹減ったら適当につまんどけ。風呂使うから、十分くらいしたら来な」
 拍子抜けした。
 男の仕事は何だろう。連休の中日(なかび)とはいえ、平日の午後にホテルで遊ぶことができる。高岡と同じ夜の仕事だろうか。
 部屋の最奥に窓がある。壁面の半分以上の大きさだった。太陽が室内を照らしている。
 窓の手前のリクライニングチェアには、携帯電話と腕時計があった。男のものだろう。ブランド物の腕時計だ。数百万円はすると思う。前にテレビで見たことがある。
 浴室を見た春樹は両手で口を押さえた。


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