Cufflinks
第一話・焔 第一章・3
月が髪の毛ほどの細さで浮かんでいる。店外は肌寒く、春樹は小さなくしゃみをした。
「仔犬ちゃん。散歩をするぞ」
「え、あの」
高岡は春樹を振り返ることなく進んでいく。手をつなぐでもなく、腕を組まされることもない。レストランがあった路地よりさらに細い道に入ったとき、春樹の肩に布地がかけられた。高岡のスーツのジャケットだった。
高岡の上着を落としたりしたら何をされるかわからない。春樹は自分の二の腕をかき抱くようにしてスーツを握った。顔を上げると、高岡が街灯の柱部分にもたれていた。もっと先に進んでいたと思ったので、春樹は高岡に軽くぶつかってとまった。
スーツを握る手をつかまれた。肩から滑りかけた上着が春樹の顔の位置まで上げられる。
上着に隠れるようにして、極めて軽いキスをされた。
本当に一瞬だけ触れた唇が離れる。チョコレートの残り香がした。
「怒りでも驚きでもいい。少しは温まるだろう」
にやついた顔の高岡がふたたび歩を進める。細い路地裏とはいえ、街灯の真下だ。遠くからは往来の足音も聞こえる。春樹の頭はカッカとした。
「お前はよく考えた。少しだけ補足をする。先ほどの店は確かにくだけた店だが、やはり作法というものはある。俺はお前の皿を取り、肉を切り分けた。あれはいただけない。店に切ってもらうのが良い方法だ。お前の客は俺と同じような行為はしない。自分を安く見せるようなことはしない。多少なりとも作法がわかれば、お前も客から安く見られにくくなる」
二、三度角を曲がると大通りに出た。人の数も増える。春樹は高岡に遅れないように歩いた。
「だがそれも小手先のことだ。お前が考えて出した結論にはかなわない。忘れないように」
「はい」
「あすの午後二時に、ホテルで俺の知人に会ってもらう」
春樹は歩みをとめた。高岡もとまる。春樹が数歩進み、高岡に並んだ。
「昔からの友人で気のいい男だ。がさつだが乱暴なことはしない。先に部屋に入っていたいそうだ。場所はおそらく新宿界隈になると思う。ホテルと部屋が決まったら俺からお前に電話をかける。わかったか?」
「……はい」
知人とは、高岡に突き上げられているときに電話で声を聞かせた男だろう。客ではないようだが知らない人物だ。春樹の胃に痛みが走った。
「高岡さんじゃ……だめなんですか……?」
春樹が高岡の顔を見上げる。高岡は目をとじて煙草に火をつけた。
「高岡さん、僕を救えないって言いました。最初に……したときも、焔持ちかって言いました。僕の体や焔がおかしくないなら、どうしてだめなんですか? しら、知らない人とするの、怖いです」
高岡の手がスーツの上着にかかった。春樹を包んでいた布地が取り去られる。
「俺もついこの間までは知らない人だったが」
高岡の声はいつもと同じ、あざけりを大量に含んでいた。
春樹はシャツ一枚で歩けるのではと思うほど、体が熱くなった。
「タクシーを拾ってもいいか? 仔犬ちゃん」
「お願いします」
「その意気だ。できれば怖い顔をせずにやる気を出してもらいたい」
高岡は笑って手を上げた。ふたりの前にタクシーがとまる。高岡が行き先を告げ、運転手に現金を渡した。春樹は奥のほうに座った。少しでもこの冷徹な男から離れたい。
とじかけたタクシーの扉を、高岡が手でとめた。
「あいつは優しい。お前なら必ず何かを得る」
タクシーの扉がしめられる。高岡がすぐに遠くなった。
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