Cufflinks
第一話・焔 第一章・3
きのうの春樹の早退が、竹下にきょう……土曜日の出勤を決意させた。十時少し前に着いた竹下は、洗濯、掃除、食事の準備と次々に仕事をこなしていく。
「だし巻き卵、甘くします?」
「あんまり甘くなくていいよ」
卵焼き器に油が敷きこまれる香りがする。春樹の好物を作るときの竹下の笑顔が好きだ。春樹はリビングのソファからダイニングテーブルに席を移した。
「突然来てごめんなさい。お電話すると、起こすと思いまして」
「そんな。きのうは僕のほうこそ、帰ってくれなんて失礼なこと言ったから」
「もうすっかりいいんですか? 病院に行かれるなら保険証出しましょうか」
「病院……少し様子見て、連休明けでもいいかなって思うんだ」
卵液を入れるジュッという音を待っていたら、コンロの火がとめられた。
「春樹ちゃん。わたしが本当のお母様なら、今すぐ病院に連れていきますよ」
「竹下さん」
竹下は愛用のサロンエプロンで手を拭い、春樹と対座した。
「連休明けは病院も混むでしょうし、すぐにテスト期間じゃないですか。大切なときに病院に行って風邪でももらうより、行かれるなら早いほうがいいと思います」
心優しい家政婦の顔には、今すぐ病院に行け、と大きく書かれている。
竹下は父のことを聞かない。母の命日兼春樹の誕生日に、春樹は父の会社に呼ばれた。春樹にしても、男相手の売春をするように言われて父にも会えずじまいだったなどと、竹下に告げられるはずもない。
春樹の体の変調に精神的なものが絡んでいると、竹下も感づいているだろう。立場上何も言えないだけだ。
竹下に両手を握られた。家事の途中の竹下の手は、少し荒れていた。
「最近、ちゃんとご飯を食べていますか? ご用意した食事は召し上がっているようですけど、学校の食堂ではどうです? 少し痩せられたんじゃないですか?」
「食べてるよ。学食でも。体重は変わってないから……痩せたように見えるとしたら、夜、寝る前にちょっと運動してるからかも」
嘘八百だ。体重なんか量ってもいない。高岡との行為を表現するとしたら運動以外にない。暴力だなどとは、断じて口にできない。
春樹は竹下の手を握り返してから離した。ダンベルで二の腕を鍛えるような仕草をしてみせる。竹下は一応微笑んでくれた。キッチンに立ち、調理を再開する。
「そうですね。心配しすぎるのもよくないですね。でも、おかしいと思ったらすぐに病院に行ってくださいね」
ダイニングテーブルで頬杖をつく春樹の耳に、卵と火が出会う音が届く。卵が焼けるいい匂いがする。
玄関の呼び鈴が鳴った。
「僕が出るよ」
春樹はドアスコープを覗いた。こんな時間に呼び鈴を鳴らすなんてあり得ないだろうが、万が一高岡だったらインターフォンを通して竹下に声を聞かれる。
玄関ドアの向こうにいたのは新田だった。速攻でドアをあける。
「修一、先輩。どうしたの」
抱きつきたい気持ちを抑えて新田を中に入れた。キッチンから竹下が来る気配がしたので、学校の先輩だよ! と言って制した。
「寝込んだりしてないか、気になったんだ。あとこれ、よかったら」
新田が紙袋を春樹に手渡す。中には複数の新聞があった。
「高岡さん、新聞とるように言ったんだろ? 新聞は読んだほうがいいと俺も思……」
「わあっ、ありがとう! ごめんねちょっと出てきます!」
春樹は全速力で寝室から携帯電話を取ってきた。靴をはいたままの新田の背中を押し、ふたりで外に出る。非常階段で階下に向かう。
「どうした? 俺、何かしたか?」
「高岡さんと竹下さんはソリが合わなくて。高岡さんはせっかちでスパルタだし、竹下さんは僕に甘いから。名前聞くだけで不機嫌になるんだ」
春樹は新田の袖を引き、ずんずん進んだ。
嘘だけは上達しそうな気がした。
次のページへ